古仏心 「 古仏心は牆壁瓦礫なり 」
- 2019/11/09
- 12:26
正法眼蔵「 古仏心 」 9 )
かくのごとく保任して
のちにさらに参究すべし
いはゆる牆壁はいかなるべきぞ
なにをか牆壁といふ
いまいかなる形段をか具足せると
審細に参究すべし
造作より
牆壁を出現せしむるか
牆壁より
造作を出現せしむるか
造作か、造作にあらざるか
有情なりとやせん、無情なりや
現前すや、不現前なりや
かくのごとく功夫参学して
たとひ天上人間にもあれ
此土他界の出現なりとも
古仏心は牆壁瓦礫なり
さらに一塵の出頭して染汚する
いまだあらざるなり

------------------------------------------------------------------
正法眼蔵第九巻は「 古仏心 」
「 古仏心は牆壁瓦礫なり 」
古仏方は、
身体と仲良くなり、身体で何かする、とはせず
身体から如何に離れるか
そのために身を正し、手を円相に組まれたのでは?
これが本日の仮説でした
坐の構成として
1.お辞儀から
左右股関節を加圧し固定す
2.加圧のままみぞおちを伸ばす
大腰筋の反発収縮力が起動
3.上半身を大腰筋パワーに任せ、脱力放下する
4.上半身の「虚」に、腰力→←腹力の「実」を対置する
1~3までは、普通の身体感覚で出来そう
一方、4の「腰力→←腹力」
これを等量で対峙せしめる
これは、
運動・スポーツ的な感覚を離れ
数理幾何的?純粋思考?的
そんな「思考」が介入するような
職人さんが、水平や垂直をとる時
「情」は、からまないと言えます
職人さんが
部材に対してとる「無情」を
古仏方は、我が身に対してなされる
その意味とは?
心身ともに
お互いの束縛から自由になれる
その結果として
心は、おおらかに発動出来
身は、本来の力を発揮出来るのでは
我が身が
牆壁瓦礫(ショウヘキガレキ)のよう受け止められる
これは、心にとっても身にとっても
ドエライ事なんだと
.