得恁麽なりとしらざらんは、あはれむべき自己なり
- 2023/02/21
- 11:17
正法眼蔵 行持 ( 80 )
至愚 sigu のみづからは
不唖漢 huakan をしらず、不唖漢をしらせず
阿誰 asui か遮障 syasyo せざれども、しらせざるなり
不唖漢なるを、得恁麽 toku-inmo なりときかず
得恁麽なりとしらざらんは、あはれむべき自己なり

趙州 zyo-syu 禅師 120年の生涯
どれだけの時間壁の前で、静かにお坐りになっておられたことか
「 あの古仏の道場には多くの
修行者が集まってるが、みな唖ではないのか 」
里の村人ならず、同じく仏道を志す禅門の僧からも
そのような誹りが、趙州 zyo-syu 禅師の御耳に届いたものである
趙州 zyo-syu 禅師 は、八世紀から九世紀の方である
日本はというと平安時代である
達磨大師の面壁坐禅が中国に伝わって以来
どれだけの俊英方が、坐禅の門を叩いたことか
「 こんな壁の前にじっと坐っていて何になろう
唖になるために、生まれて来たのか 」
はなばなしく火を焚いたり、呪文を唱えたり
実際目の当たりにすれば
そのインパクトは圧倒的である人を虜にする
坐禅僧が並んで壁の前に坐っている、その姿は荘厳であるが
壁の前に坐っている本人に、そのような感動は訪れなかったのである
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