行 持 下 「 仏祖単伝の行持なるべし 」
- 2021/04/05
- 08:38
正法眼蔵 行 持 下
「 仏祖単伝の行持なるべし 」
しづかにおもふべし、一生いくばくにあらず
仏祖の語句、たとひ
三々両々なりとも道得 do-toku せんは
仏祖を道得せるならん
( 静かに考えてみると
( 人生は、あっという間です
( たとえわずかでも
( 仏祖の言葉が身にしみたなら
( それは、仏祖に出会えたと言う事です
ゆゑはいかん
仏祖は身心一如 iti-nyo なるがゆゑに
一句両句、みな
仏祖のあたたかなる身心なり
( 何故なのでしょう
( 仏祖は、心と身が
( 一つのように見えます
( 一如とは 「 一つになる 」 ではなく
( 別々なものが一つに見える
( と言う意味です
( 心と身が別々だからこそ
( わが身を客体として
( 大事に扱うことが出来るのです
かの身心、きたりて
わが身心を道得す
正当道得時
これ道得きたりて
わが身心を道取するなり
此の生に累生の身を道取す、なるべし
( 私達はどのように
( 身心を運用すべきでしょうか
( 仏祖のそれが見本となります
( 仏祖はその身を客体化し
( 心はあたかも
( その身の外にあるかのようにして
( その身に威儀骨格の風を送ります
( 私達が同じ事、威儀坐禅をなす時
( 私達もこの身の外から
( 威儀骨格の風を送っているのです
かるがゆゑに
ほとけとなり祖となるに
仏をこえ祖をこゆるなり
三々両々の行持の句
それかくのごとし
( それゆえ、坐して威儀するとは
( わが身から離れる事です
( この身が 「 客体 」「 その身 」 となる時
( 私達は仏祖と同じ事をしており
( 仏祖は見上げる存在ではなくなります
( 仏祖が残された教えとは
( そのようなものです
いたづらなる声色の
名利myo-ri に
馳騁 ti-hei することなかれ
馳騁せざれば
仏祖単伝の行持なるべし
( いつも、この身の
( 感覚に追い回されてる
( 坐して威儀を正すとは
( このグルグル舞いから
( 離れることです
( この身に威儀の風を送るは
( 客人に茶をふるまうようなものです

すすむらくは
大隠 dai-in 小隠 syo-in
一箇 i-ko 半箇 han-ko なりとも
万事万縁をなげすてて
行持を仏祖に行持すべし
( 深山に一人あっても
( 喧騒に一人あっても
( わずかな時間でも坐して威儀を正すなら
( この身は 「 客体 」「 その身 」 となります
( この時、私達は
( 五感の呪縛から離れます
( 大事な客人ですが
( その感覚や内面はどこまでも
( 同情すべき対象に止まります
( 仏祖は、この法を残されました
( 私達がそうして、自由になる事を
( 仏祖は願ったのです
( 私が勧めたい威儀坐禅の法とは
( そのようなものだったのです
正法眼蔵 仏祖行持 第十六下
仁治三年 壬 mizueno 寅 tora 四月五日
観音導利 興聖 ko-syo 宝林寺に于 o いて書く
同四年 癸卯 mizunoto正月十八日 書写
同三月八日 校点了kotenryo 懐弉 e-zyo
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