行 持 下 「 不虧 huki の人也 」
- 2021/01/11
- 08:33
正法眼蔵 行 持 下
「 不虧 huki の人也 」
投子 to-su は人をして
米 bei を辨 ben じ
同じく煮て共に餐 san せしむ
你 nanzi が事を省取 sei-syu することを得んと要す
( 投子禅師(805-914)は
( 皆と食べ物を分かち合います
( 共に食し、皆が坐禅に専念出来るよう
( はからったのです
且 sibara く
従上 ju-zyo の諸聖
此 kaku の如くの榜様 bo-yo あり
若 mo し長処無くんば
如何 ikan が甘 amana い得ん
( 祖師方はみな
( このように人々を坐禅へ導きました
( 坐禅に長所が無ければ
( そうしなかったはずです
諸仁者
若し也 ma た斯 koko に於いて
体究せば的 masa に不虧 huki の人也
若し也 ma た肯 ae て
承当 zyo-to せずんば
向後 ko-go 深く恐らくは力を費やさん
( もしここで体得すれば
( 欠けることのない人となります
( もし進んで努力しなければ
( これから苦労することになるでしょう

( なぜ、祖師方は
( 坐禅を尊ばれたのでしょう
( ガツンと坐るその一瞬で
( 強固な鏡面がつくれるからです
( 「 宝鏡 」 とは、
( 端境(はざかい)・結界と言えます
( どんな心もその外には出れません
( そしてどんな心も気ままで
( 強固な運動エネルギーを持ってる
( 「 業 」 です
( 宝鏡結界を張ります
( そこで業を解放すればどうでしょう
( どの方向へ暴走しても
( 宝鏡結界に当たり反射します
( 外には出れません
( すべて中心へ逆走します
( 四面楚歌
( 一歩も外に出れないそれが
( 中心一点へ無窮の活路が通じる
( 結界が「 自閉 」 とならず
( 活路となるのは
( 結界の内壁が鏡面だからです
( 「 欠けることのない人 」 です
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