行 持 下 「 慕 古 」
- 2020/12/11
- 08:26
正法眼蔵 行 持 下
「 慕 古 」
長慶 tyo-kei の慧稜 e-ryo 和尚は
雪峰下の尊宿 son-syuku なり
雪峰と玄沙とに往来して
参学すること僅 kin 二十九年なり
その年月に、蒲団二十枚を坐破す
( 長慶慧稜禅師 854~932 は
( 雪峰門下の優れた方です
( 雪峰禅師と玄沙禅師のもとで
( ほぼ二十九年学びました
( その年月、坐蒲が押しつぶされ
( 坐蒲を二十枚を更新されました

いまの人の坐禅を愛するあるは
長慶をあげて慕古 mo-ko の勝躅 syo-tyoku とす
したふはおほし、およぶすくなし
( 坐禅を愛する人があれば
( 長慶禅師こそ
( 慕うべき優れた先人と言えます
( しかし、慕うことは出来ますが
( およぶことは難事と言えます

しかあるに
三十年の功夫むなしからず
あるとき凉簾 ryo-ren を
巻起 kanki せしちなみに
忽然 kotu-nen として大悟す
( しかし、長慶禅師三十年の探求は
( 無駄にはなりませんでした
( ある時すだれを巻き上げている時
( 忽然と大悟します

三十年来かつて郷土にかへらず
親族にむかはず
上下肩と談笑せず
専一に功夫す
師の行持は三十年なり
( 三十年来 、郷土に帰らず
( 親族と交流せず
( 僧堂の修行者と談笑せず
( 専一に探求精進します
( 師の坐の行は三十年に及びます

疑滞 gi-tai を
疑滞とせること三十年
さしおかざる利機といふべし
大根といふべし
励志 rei-si の堅固なる
伝聞するは或従 waku-zyu 経巻なり
( 疑問を疑問として
( 持ち続けること三十年
( 優れた人物と言うべきであり
( 大根気と言うべきです
( このように志の堅固な人を
( 伝え聞くのは、経典の中ぐらいです

ねがふべきをねがひ
はづべきをはぢとせん
長慶に相逢 so-ho すべきなり
実を論ずれば、ただ道心なく
操行 so-gyo つたなきによりて
いたづらに名利には繋縛 ke-baku せらるるなり
( 願うべきを願い
( 恥ずべきを恥じようとするなら
( この長慶禅師に思いをはせるべきです
( 現実はと言うと
( 道心が深まらず、修行が浅くなり
( 名利に取り込まれてしまうからです

「.....万象の中、独り身を露 arawa す
........人、自ら肯 ukega わば
........すなわちまさに親しからん
........昔時 seki-zi 謬 ayama って
........途中に向かって求む
........今日看れば
........火裏 ka-ri の氷の如し................」
....................長慶慧稜禅師 854~932

( これは千百年前、中国の
( 長慶慧稜禅師が残された詩です
( これを シュタイナー先生が示された
( 十字心魂図から読み解きます
( 初句の 「 万象の中、独り身を露 arawa す 」
( これは、 D の形・坐形がある意味
( A・B・C と分離したよう、客観的に現れる
( その心象に合致します

( 「 人、自ら肯 ukega わば
すなわちまさに親しからん 」
( 坐形、坐禅の姿を
( 長慶慧稜禅師は三十年探求された
( 精神・自我を物質としての身体に
( 三十年、打ち込むのですが
( 身体を精神・自我で貫くことは難事です
( 身体には過去からの記憶表象と
( 未来から迫り来る欲望や不安が浸透してるからです
( 身体に芯を通そうとしても屈折してしまいます
( 「 自ら肯 ukega う 」 「 よしとする 」
( 身体を表す「月」へん、そこに止まる
( 文字の通り、「 肯 」 です
( 身体に止まるとは、何でしょうか
( 普通、時間は一方向に流れています
( 身体に止まる時
( 欲望や不安は先にあるのではなく
( 未来から今ここへ
( この身体へ流れて来ます
( 過去からの流れと
( 未来から来る流れを今ここで受け止める
( これが哲学や抽象論にならないのは
( 左右二方向の時間を 「 肯 」 の時
( 身体において腰(力)腹(力)が同量対峙します
( これは肥田春充先生の腰腹同量にも合致します

( 下腹に力を込める
( これが格言に終わらず、生きた教訓になるには
( 下腹の力が何処から来るか
( それは、未来から迫りくる欲望や不安である
( そうとらえると、その力に困ることはないと言えます
( 欲望や不安が今ここにやって来て
( 腹力となり、身体と精神に垂直に交わります
( 燃えるような欲望や不安
( それが他と十字に交わることで
( 「 火裏 ka-ri の氷の如し 」 に変わる
( 咎 toga が消える、問題でなくなる
( そして、「 氷の如し 」 には
( 坐形、坐禅の姿が自分でありながら
( 客観的に浮かび上がる
( この心境を表現していると言えます

( 記憶表象・欲望不安
( そして生身の身体と
( それを無理やり造形しようとする精神
( これらが混然一体ならば
( とてもそんな苦行が
( 三十年続くわけがありません
( 長慶慧稜禅師は三十年に渡り
( それらをきれいに分離し
( それらのどれも否定することなく
( 坐禅十字の中に再構築されたと言えます
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