行 持 下 「 引頸就刃 inkei-syuzin 」
- 2020/11/27
- 09:27
正法眼蔵 行 持 下
「 引頸就刃 inkei-syuzin 」
人主 nin-syu としては
身命ををしまず
引頸就刃 inkei-syuzin して
身命ををしまざる人物をも
なほ歎慕 tan-bo するなり
これいたづらなるにあらず
光陰ををしみ、行持を専一にするなり
( 太宗皇帝は中国において
( 稀代の名君です、それゆえ
( 神妙に己の首を差し出せる人物が
( どのような人であるかを理解します
( しかし、禅師は
( 無用の争い事をしたわけでなく
( 「 大事な時間 」 を惜しんだのです

( 神妙を宗とする
( ? です
( 四祖 大医道信禅師は
( 何に対して、神妙してたのか

( 達磨大師から続く
( 面壁坐禅の継承 ?
( 師、その上の師に対して
( そうは、考えられません
( 大医道信禅師のみならず
( 祖師方の神妙は
( 仏道にも坐禅にも依存していない
( これは明らかです

( 伝統のプライドや
( 先人に対する敬意
( これは大事ですが
( それで出来る事ではありません
( 幾十年と坐禅したり
( 皇帝の招聘を辞退したり

( 自分、通常の自我は
( B、C、D の渾然一体を
( 「 自分 」 と感じています
( 大医道信禅師の自我は
( そのように「 自分 」 を構成してない
( それは明らかです

( 大医道信禅師は
( A の 「 精神・自我 」 を
( 心身 ( B・C・D ) の真上から
( 垂直に、心身に打ち込んでいます

( 四祖 大医道信禅師は
( 何に対して、神妙だったのでしょう
( 自分(A)が
( 自分( B・C・D ) に打ち込む
( 自分(A)に
( 神妙だったと言えます

( ここには釈尊も達磨大師も
( 二祖慧可大師
( 三祖僧璨 so-san 大師も、登場しません
( どこまでも、自分(A)が
( 自分( B・C・D ) に
( 自分(A)を打ち込むです
( それゆえ、四祖たりえたと言えます
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