行 持 下 「 報謝の正道 」
- 2020/11/09
- 08:10
正法眼蔵 行 持 下
「 報謝の正道 」
ただまさに日日の行持
その報謝の正道なるべし
いはゆるの道理は
日日の生命を等閑 to-kan にせず
わたくしにつひやさざらんと
行持するなり
( 日々の行持
( 面壁坐禅を標準として行く
( これが恩に報いる正道です
( その道理は、日々をいい加減に過ごさず
( 自分を勘定に入れないことです
そのゆゑはいかん
この生命は
前来の行持の余慶 yo-kei なり
行持の大恩なり いそぎ報謝すべし
( 何故かと言うと、この生命が
( そのように創造されたからです
( それだけの事が出来るよう
( そんな働きかけが
( あったればこそなのです
かなしむべし、はづべし
仏祖行持の功徳分より
生成せる形骸 kei-gai を
いたづらなる妻子のづぶねとなし
妻子のもちあそびにまかせて
破落 ha-raku ををしまざらんことは
( 悲しみ恥じる事は
( 天上の思考から創られた身体を
( 日々の生活に任せて
( その設計の意図を発揮しない事です

( 「 われわれのかたちに
( われわれをかたどって人を創り ・ ・ 」
( ....................................創世記 1章26節
( 神は自分に似せて、人を創られた

( 経験・記憶・素養
( 分かるッ、って言う時
( 以前それに対応する表象を
( 形成してて、それが呼応して
( 分かるッ、ってなるんでしょうか

( 聞いた事、目にした事
( それに呼応する表象がないと
( まったく??? になります
( これにひるまず
( その瞬間を冷静に感じると
( その時、私達は通常かくれてる
( 深奥の自我
( 精神と呼ばれているものが
( 久しぶりに登場されたと感じます

( 私達は
( 身体と心魂で出来ている
( これは9世紀にキリスト教会が
( 会議を開いて決めた
( 法律のような人為的なもの
( と言われています

( それまでは
( 身体と心魂と精神
( この三つで私達は出来てる
( 誰でもそう思ってたと

( 何故そんな事になったか
( 教会が危惧したのは
( 人が精神を持ってると思うのは
( とても危険だから
( しかし、ここで言う精神とは
( 「 私 」 に他なりません

( この一節で述べられてる
( わたくし事をしない
( の 「 わたくし 」 が
( 通常の自分としますと
( 教会が禁じた 「 私 」 は
( 神に通じる、と言うより
( 神そのものの、「 私 」 と言えます

( 精神とは 「 私 」 である
( 「 私 」 とは神に他ならない
( この深奥の自我は
( それ単独で存在してる
( それが、神たるゆえんでしょうか
( 「 私 」 は社会や他者に述べてる
( そのような言葉ではなく
( 自分が自分に対してのみ
( 使われる言葉と言えます

( 「 私 」
( すなわち精神であり
( 神そのものを行使できるのは
( 自分自身に対してのみ
( そう言えます

( 自分自身
( この身体とこの心魂に対し
( 只一名に対してのみ
( 私達は 「 神 」 ( 私 ) を
( 行使出来ると言えます
( これを社会や他者に向けると
( 言霊?に反するし
( 人の自立を妨げるので
( 教会がそれを禁じた事も
( 一概に悪意とも言えません

( しかし、人為的決め事で
( 身体・心魂・精神で出来てるものを
( 精神をはしょって
( 人は、身体と心魂で出来てる
( そうしちゃって一千百年も経っちゃった
( 世界中でそれが常識になっちゃった

( 創世記に記された
( 神は自分に似せて、人を創られた
( その意味は
( 人は自分に対して
( 「 私 」 と言う事が出来る
( って言うことでしょうか
( これは万国共通なので
( 道元禅師はそれを
( 「 この生命は前来の行持の余慶 yo-kei なり 」
( とレポートされたわけです

( 自分自身へ向ける
( 「 私 」 と言う思い
( これが他の表象と異質である
( それは明らかです
( 外界境遇心境を超越してます

( 「 私 」 は幸せだ
( 「 私 」 はみじめだ
( どう転んでも 「 私 」 は不動です

( 存命中まったく
( 報われなかった芸術家が
( マグマな創作意欲を維持出来た
( 幾十年と山に籠り
( 面壁坐禅の行持を続けられた
( それでもぜんぜんめげない
( 一隅を照らすで、自分の職分を全うする
( 対価評価に依存してない
( すごいことですが
( 当然と言えば当然と言えます

( 自分の身体と心魂に対し
( 「 私 」 を打ち込んでいた
( 「 神 」 を行使なされておられた
( お強いわけです
( この現実から翻って道元禅師は
( そのように強く生きれるのに
( 何故その創造の意図を
( 行使なされないのですか?
( そう問いかけているのでしょう
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