行 持 下 「 法器なり 」
- 2020/11/04
- 08:13
正法眼蔵 行 持 下
「 法器なり 」
初祖ちなみに
二祖これ法器なりとしりぬ
乃ち曰く
諸仏、最初に道を求むるに
法の為に形を忘る
汝今、臂を吾前に断つ
求むること亦 mata 可なること在り
( 二祖慧可大師は
( 自らの左臂を断ちます
( 達磨大師はこれを見て
( 慧可大師が、法の器であることを知ります
( 達磨大師は、述べられます
( 諸仏は道を求めた時
( 自分の身体を忘れます
( あなた今、私の前で臂を切り落とした
( あなたが道を求める心を理解しました

( 自ら臂を切り落とす
( かなり際どい強烈なイメージです

( このような表象
( 普通の生活では
( 意味を持たないだろう
( そう推測されますが
( 3D座標、3本の線に沿って身を正す
( この面壁坐禅を修練するなら
( ちょっと話しが変わって来ます

( そもそも論で
( なぜ、3本の線をイメージするのか
( それって 「 一点 」 を確定するためです
( そして、なぜ一点 を確定するかと言えば
( 腰腹中央に一点 を確定出来れば
( それが身体の代表になってくれるから

( 曖昧な「身体感」ですが
( 一点を体感出来れば
( その一点に身体を感じられます
( 一点が身体の代表に
( なってくれてるからです
( その時、その一点( 身体 ) と
( それを感じてる私って
( 見られるもの、見るものって
( 少し距離が持てます

( 自ら臂を切り落とす
( かなり際どい強烈なイメージですが
( 腰腹中心に
( 「 一点 」 を確定する時
( 役に立ちます
( ざっくりデッサンでは3D座標系が
( 助けになります
( しかし本当に
( 「 一点 」 を体感しようとするなら
( その3D座標系も邪魔になります

( 「 一点 」 を体感しようとするなら
( 座標系の線も消さないといけません
( この実践イメージに
( 「 自ら臂を切り落とす 」 が合致します
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