行 持 下 「 操を操とせざる 」
- 2020/10/30
- 12:01
正法眼蔵 行 持 下
「 操を操とせざる 」
かくのごとく自惟して
法をもとめ道をもとむる
志気のみかさなる
澡雪 so-setu の操 so を
操 so とせざるによりて
しかありけるなるべし
( 二祖慧可大師には
( 古人の行いが身近に思え
( さらに近づこうと思えて来ます
( 雪を振り払わなくても
( 雪に埋もれ身体は凍死しても
( 身体の生とは独立した
( 不生不死の火の生が
( 確信となって来たのです

( 神なのに
( 不明な十字架に架けられたり
( ただお腹空いてる虎に
( 身を投げたり
( そんな理解不能な行いの
( どこに人の希望があるのでしょう
( この二祖慧可大師が
( 山中で雪に埋もれてる
( この行いも然りです

( 蝶々さんの標本
( 蝶々さんは身軽に飛んでたのに
( 一針を身の一点に刺されて
( その亡骸がそこにあります

( 身中にイメージで
( 聖十字を描きます
( 神妙に行うと
( 中心が浮かび上がります
( この一点は
( 蝶々を止めた一点です

( 達磨大師の面壁坐禅
( 頭頂からの真下へ向かう
( その力線って
( 蝶々を止めた一針のようです

( 生きながら
( 身体を止めて
( あるいは身体を死として
( 何の意味があるんでしょう

( 合成写真の技術に
( 「 レイヤー 」 があります
( 3枚の絵、4枚の絵を
( 透かしガラスのように重ねて
( それが一枚の写真に収まります

( 同じ場所で動かず
( 「 そこから離れる 」 って
( 変なお話しですが
( 三枚四枚のレイヤーなら
( 密着した一枚のレイヤーから
( 離れるって、可能です
( 同じ場所で、そこから離れる

( 面壁坐禅では
( 身が聖十字に架けられます
( 身が蝶々の標本になります
( 身から離れても
( 私達は存在しえる、と言う
( 予感が生まれます
( 祖師方ではそれが
( 確信になってる現実になってる
( そう推測されます
( それは不生不死なるゆえ
( 祖師方の強さが
( 異次元なことが察せられます
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