行 持 下 「 滴滴こほる 」
- 2020/10/28
- 07:29
正法眼蔵 行 持 下
「 滴滴こほる 」
ややつもりて腰をうづむあひだ
おつるなみだ滴滴こほる
なみだをみるになみだをかさぬ
身をかへりみて身をかへりみる
自惟 ji-yui すらく
( 雪が積もって腰を埋めます
( 落ちる涙が凍ります
( その涙を見てまた涙します
( 我が身を省みて思います
昔の人、道を求むるに
骨をうちて髄を取り
血を刺してうえたるをすくう
髪を布きて泥をおおひ
崖 kisi に投げて虎に飼ふ
古 inisie 尚 かくの若し
我又、何人ぞ
( 昔の人は、道を求め
( 骨をたたき髄を取り
( 飢えた者へその血を与えたり
( 仏の為、髪を切り泥上に敷いたり
( その身を投げて虎に与えたり
( 昔の人は、そのようになされた
( 自分は、どうだろうか

( 六世紀に生きた
( 二祖慧可大師にとって
( 古 inisie 人とは、その一千年前
( 釈尊以前の求道者の方でしょうか

( 身体の中にいる時と
( 身体に宿らず世界にいる時と
( 100年と1000年の合計
( それを繰り返し生きてる
( そう、予感出来るのに
( とてもそうは、感じられない
( 求道する 古 inisie 人は、そう感じておられた

( 身体の中にいる生は
( それ以前の生、「 不生 」 の生と
( それ以後の生、「 不死 」 の生
( その継続の中にある
( そう予感出来るのに
( この身体に対する感覚は
( 重くなってしまった
( でも、そう思えるって
( 今ほど身体に
( 埋没してなかった、とも言えます

( 自分の身体に
( あまり埋没なされて、おられない
( これが、古 inisie 人が
( 飢えた虎に身を捧げられた
( その背景のよう思われます

( 身中に3 D座標系
( 聖十字をイメージします
( 単なる思考ですが
( 身体の筋肉骨格全体を動員します
( 聖十字をイメージから意志へ
( そして生きてるような心魂へと
( 育成してゆけます

( 3 D座標系? 聖十字のイメージ?
( これを実体化するため
( 坐禅という身体の形式も動員します
( 何故でしょうか
( 「 一点を定める 」 ためと思われます

( 古 inisie 人から続く
( 求道者の系譜、そこに共通する
( 「 一点を定める 」 と言う行持
( これが謎なのは
( それが身体への埋没から脱する
( そのための道だから

( スケジュールや目標
( それがはっきりしますと
( 私達は気が楽になって邁進出来ます
( 何食べに行こうか?
( どうしようか? むにゃむにゃです
( よし、あそこの味噌ラーメン食べに行こう
( そうしよう! 俄然気が楽になって
( 車を走らせます !!
( 的を射てから、矢を放つです

( 身中に3 D座標系な
( 聖十字をイメージして中心を定めます
( よし! そこへ向かおう! です
( 気は晴れて、迷いなく進もう !
( しかしこの歩みは
( 空間的にも時間的にも
( 外を向いていません
( その一点は、身中にあります

( 聖十字の中心点
( その一点に集結するものって
( 何でしょうか
( 身体の移動ではありません
( そう、己の心魂に他なりません
( 身体に深く埋没してる、その心魂です

( 己の心魂が
( 身体に深く埋没してない
( これと
( 他者に関心が持てる
( 世界に関心が持てる
( 深く同情できる、それがリンクします
( 釈尊の慈悲と
( 面壁坐禅の聖一点がリンクします
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