行 持 下 「 神物倏見 」
- 2020/10/24
- 11:40
正法眼蔵 行 持 下
「 神物倏見 」
真丹 sin-tan 第二祖
太祖正宗普覚大師は
神鬼ともに嚮慕 kyō-bo す
道俗おなじく尊重せし高徳の祖なり
曠達 ko-tatu の士なり
伊洛 iraku に久居して群書を博覧す
くにのまれなりとするところ
人のあひがたきなり
( 中国の第二祖
( 太祖正宗普覚大師
( [ 二祖慧可大師 487-593 ] は
( 神にも鬼にも慕われていました
( 出家者からも在家者からも尊重される
( 高徳の方で、とても心の広い方でした
( 伊洛に久しく住んでおられ
( さまざまな書物を学んでおられた
( 中国でも群をぬいた人物で
( このような方を、会い難き人といいます
法高徳重のゆえに
神物倏見 syuku-ken して
祖にかたりていふ
「 まさに受果をおもはば
何ぞここに滞るや
大道遠きにあらず
汝其れ南へゆくべし」
( そのような徳の優れた方に
( ある日 天神の声が聞こえます
( 仏法の真価を求めるなら
( どうして、そこに居るのですか?
( 大道は遠方にはありません
( あなたは、南へ行きなさい

( 二祖慧可大師 487-593 は
( 神かも鬼からも、慕われてた
( これって、どう言う事でしょうか
( 慧可大師は、曠達 ko-tatu の士
( 心の広い方だったと記されています
※ 六世紀、日本は古墳時代

( 慧可大師は
( 神にも鬼にも心を開いて
( 温かい眼差しを向けられた
( それに応えて、神々や鬼方も
( 慧可大師に対しては
( 嚮慕 kyō-bo の表情を示された
※ 「 嚮 」 kyō 向く・響く・もてなす

( 達磨大師にお会いする前
( 慧可大師は既に
( そのような広い心を形成されてた
( 慧可大師が
( 正法眼蔵なる面壁坐禅の法を
( 達磨大師から授かる以前の事です

( 温かく美しく内十字な
( 集約力をもった「 聖十字 」 を描く
( その六本の座標線の内
( 背後からの線は、時間でした
( 前へ流れる記憶表象
( 前方から問いかけて来るのは
( 時間記憶の鏡像としての
( 好き嫌いや志向でした
( 前後の二線は 「 時間 」 に
( 関係しています

( 下から私達に
( 問いかけてくるのは
( 「 今この身体の中にある 」 と言う
( 身体を得るとは得難き事だ
( という戒めでしょうか
( 前後の時間系から見ても
( それはある意味一瞬ですから
( 身体の中にいれるのは

( では、左右の二本は
( 何を表してるのでしょう
( 面壁坐禅の身構えでは
( 左右の腕と手でつくる
( 法界定印の左右です
( これは 「 空間 」 を表してる
( そう、仮定してみます

( 面壁坐禅を構成する
( 3 D 座標系六本の線
( 左右から流れ込むものは
( 広大な空間で両極に対峙するもの
( 東の極に神が、西の極には鬼が
( それらを慧可大師は、あっさり受容します
( 慧可大師は
( 達磨大師にお会いする前すでに
( 面壁坐禅を構成する 3 D 座標系
( その六本の線のうちの左右二本
( すなわちとても広い空間に
( 親しんでおられた

( そのような慧可大師に
( ある日、天神の声が届きます
( ??? です
( これって比喩でしょうか
( おとぎ話しの語りでしょうか
( でもこれって、2020年の現実にあっても
( 深刻な現実のよう思われます
( ある日、〇〇の声が聞こえた ・・・

( どんなお話しだったっけ?
( 深刻な事も
( 5年後に振り返ってみたら
( その経緯すら思い出せません
( なのに年間幾人の方が
( 自らの命を放棄するのでしょう
( 結局和平交渉して終えるしかないのに
( 世界中で、戦闘開始の指示がなされます
( それって
( ある日、〇〇の声が聞こえた ・・・ から

( 15世紀くらいから始まる
( 近代科学なアプローチは
( 目に見え、計量可能な物質
( それに対しては有用と言えます
( 霊的?精神的?物質化してないもの
( 美しいィ!と言う感動や
( 悲しい、切ない、身がずたずたになりそう
( そんな、存在が
( 絶対否定出来ないにも関わらず
( それらに対しては
( 科学的アプローチはノーコメントです
( でもそれって
( アプローチ 「 出来ない 」 のではなく
( 実は最初から守備範囲にしてないから

( 科学的アプローチって
( 存在のある一面、物質化してるもの
( それにアプローチする有用な手段で
( でも存在って、物質化するだけじゃなく
( その他の形式でも
( どんとこいィ!って存在しうる
( それって私達の日常を観察しても
( すぐ分かっちゃう事実です
( 水が飲めなくて困った
( お腹が空いて死にそうだった
( 凍えて死にそう ・・ないとは言えませんが
( 日々の困りごとは
( あるけど、見えないものです

( ある日、慧可大師に
( 天神の声が届きます、何故でしょうか
( 約1200年のスパンで
( その内の50年70年間、この地上で
( この身体で生活することになっちゃった
( この輪廻転生が現実とします
( 慧可大師に限らず私達も
( 約1000年物質化しない在りようで
( 暮らしてた、また暮らす、とします

( そこでは私達は物質化してません
( それと同じように
( その環境も物質化してない?
( 約1000年間の非物質的環境って
( どう構成されてるんだろう
( 古人のレポートは、東西共通してて
( 欲界・霊界・神界
( そう構成されてるらしい
( その名称は様々ですが

( 時系列では
( 欲界→霊界→神界 と進み
( 神界→霊界→欲界 と下り
( そしてまた地上の身体に受肉する
( 私達が非物質的在りようになると
( そう、身体から離れると
( まず直面する環境が欲界と呼ばれてる

( 地上では何考えても自由ですので
( あのYaro- って敵意をもったとします
( それが欲界では
( 逆向きになって自分へ向かってきます
( 身体はないので傷つきませんが
( 心魂は、ずたずたにされちゃう
( そんな欲界を経験し
( 反省を携えて、霊界→神界へと
( 環境が変わってく
( 神界では愛と崇高に満ちた世界
( それを経験する事に ・・
( でも、ここで疑問が生じます

( 慧可大師に限らず
( 世界中の人がそんな世界
( 経験して来たのになぜ
( 神界→霊界→欲界 と下って
( また地上生を始めると
( なんだかNa~っ?って、進化してないのか

( お話し転じて
( その欲界→霊界→神界って
( 神界→霊界→欲界って
( どこにあるんですか?と言う問いです
( 先人方のレポートは
( ほぼ同じで、 「今ここにある 」

( そのレポートが
( その通りとします
( 「今ここにある 」 どの「 界 」 の音を聞くかは
( 私達の自由に委ねられてる
( てなっちゃいます
( 絶対に許さない!と言う
( 地獄の怨念を聞くのか
( どこまでも温かい愛が広がってる
( そのような神界の音を聞くのか

( ある日、慧可大師は
( 天神の声を聴くこととなる
( これって、童話の比喩じゃなく
( 私達の内面も同じように
( 目に見えないものの声を聴いてる
( 毎日、それに揺り動かされてる
( そんな当たり前の事をレポートしてる
( そんな一節なのかも知れません
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