行 持 下 「 報 謝 」
- 2020/10/12
- 08:47
正法眼蔵 行 持 下
「 報 謝 」
しかあれば、祖師の大恩を
報謝 ho-sya せんことは
一日の行持なり
自己の身命をかへりみることなかれ
( 達磨大師の大恩に報いるということは
( 今日の行持である面壁坐禅
( すなわち身に内十字を切る事に他なりません

( 「 救迷情の自己なるゆゑに
( ................驚疑なく、怖畏 hu-i せず 」
( 8/29 http://newstoday.jp/blog-entry-13.html
( 道元禅師がここで御使用されてる
( 「 自己 」 という言葉は
( 心を内十字に運用した時の
( 自分の在り様の事でしょうか
( 心を、どのように運用するかによって
( 第一人称である自分は
( 様々な在り様に変化するかのようです

( 東洋において 「 道 」 という言葉が
( 使用された由縁がここから推測されます
( 魂の骨格 ? をどのように描こうか
( route 心の進路航路を描こう ! でしょうか
( 坐禅が無意味に思われるのは
( 姿勢を正す事には、意味がないから
( 無意味に思うのは正常な反応かも知れません
( ではどこが貴いのでしょう

( 坐禅するには、身体以前に
( その坐禅の骨格を
( 心中に 「 下書き 」 する必要があります
( アイデアがあって、構造設計がなされ
( 図面が引かれて、そして着工建築
( 順番が逆になる事はないはずです

( 達磨大師や道元禅師が
( 坐禅を尊ぶ所以がここに見て取れます
( 坐禅と言う建築を完成させるには
( 心中に魂の骨格を
( 下書きする必要があるから ・・・
( そしてその下書きの線描は
( 建築 ( 坐禅 ) から逆算されて
( 内十字なる構造力線にならざるをえません

( 内十字なる構造力線とは
( どのようなものでしょうか
( それは
( 自ら消滅することが出来ない迷情
( それを中心へ誘導し寂滅せしめます
( この route 構造こそが
( 面壁坐禅にかくされた
( 本領本懐であるとするとします
( この仮定から
( 達磨大師や道元禅師がなぜ
( そこまで坐禅を推奨なされたか
( すこしですが、推測することが出来ます
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