行 持 下 「 使用せず 」
- 2020/09/30
- 11:27
正法眼蔵 行 持 下
「 使用せず 」
今生、つひに
如来の真訣をきかず
如来の正法をみず
如来の面授にてらされず
如来の仏心を使用せず
諸仏の家風をきかざる
かなしむべき一生ならん
隋 唐 宋の諸代
かくのごときのたぐひおほし
( 今生この身で
( 如来の秘訣を聞けず
( 如来の正法を見れず
( 如来の面授に照らされず
( 如来の仏心を使用できない
( 諸仏の家風を聞けない
( 悲しいことです
( 六世紀から十世紀
( 随、唐、宋の時代でも
( そのような状況でした

( 六世紀 ( 520年 ) に
( 達磨大師が中国へと
( 面壁坐禅の正法を伝えられた
( でもすぐには受け入れられなかった
( 悲しいことだと言う一節です

( 如来、不思議な言葉です
( このブログでは、内十字
( という言葉をいつも使ってます
( 小石を水面に投げます
( 中心から波紋が広がります
( その反対で周辺から
( 波紋が中心へ集まってくる感じ
( これを内十字と言う言葉にしてます

( 如来、を内十字と言う
( 簡単なベクトル・イメージに
( 置き換えてます
( 来る感じ、「 来る如し 」 です

( 達磨大師や道元禅師
( 仏法・面壁坐禅を離れてみます
( この如来トレーニング ?
( 一般生活にお役に立つかも
( どうお役に立つかと言うと ・・・
( 内十字の計六本の矢
( その中の 「 二矢 」
( その上からの矢と、下からの矢です

( きっちり大地を踏みしめて!
( 内十字ではそうなりません
( 身体の中心へ
( すべてのベクトルが向いてる
( すると足の体感は上向きです
( ?? ですが
( 重さの体感は上にあり、でしょうか
( 上半身のベクトルは下向き

( 足の体感は上向きです
( これは?? ですが
( 静岡県三島の龍沢寺
( 中川宋淵老師の言葉に
( 「 薄氷を踏む如し 」 があります
( これは禅問答でも思想でもなく
( 実感のシミュレーションです

( 床が抜けそうなとこ歩く
( 氷が割れそうな湖でワカサギ釣り
( そんな経験はまずないので
( 「 薄氷を踏む如し 」 と言われてもね ・・
( 似た体感に足がすくむがありますが
( これは用心を通り越して
( 怖さを感じた時でしょうか

( 「 薄氷を踏む如し 」
( これは体感シミュレーションなので
( 床は抜けないし、湖にも落ちないので
( 安心して行えます
( この体感へアプローチします
( 内十字ですから、上半身からの
( 下向きのベクトル ↓
( 「 薄氷を踏む如し 」 の体感
( 上向きのベクトル ↑
( 直線上にそろうよう イメージです

( 重さは下向き
( 「 薄氷を踏む如し 」 は上向き
( 計算上は ( +A)+(-A) = 相殺の零
( となるでしょうか
( それで? ・・・ あら不思議
( これは通販の個人的ご感想 ですが
( 身体の重さが軽くなったような

( 錯覚でしょ! なのですが
( 道元禅師の「 かなしむべき一生 」
( ではありませんが
( 同じく錯覚で、心身を重く感じてる
( それでいいんでしょうか

( 錯覚でないものがあります
( 直線上に合わせるという理念です
( 直線、円でもいいのですが
( これは個人的な思いでないし
( 思想哲学、宗教でもありません
( 実は、科学でもありません
( 自然界にはないからです
( 精神空間にもありません
( あえて言うなら精神空間の
( 更にかなたの 「 理念界 」 より来り
( でしょうか

( 直線上に合わせる
( こんな単純な事ですが
( 直線、この理念は
( 精神界を凌駕してますので
( 小学生でも定規で直線を引く時
( お顔が神妙になるわけです

( 女性はお肌のお手入れ
( 真剣になされます
( それに小顔がよろしいようで
( その延長線上で
( お顔を神妙になされるのも
( よろしいかも知れません

( 男性なら、ぼやっとお顔は × だし
( ヒステリックな感じも避けたいです
( 神妙なお顔がベースで
( 常に周りを尊べる
( そんなキャラが理想でしょうか
.