行 持 下 「 れいへい 」
- 2020/09/21
- 12:37
正法眼蔵 行 持 下
「 れいへい 」
梁の普通よりのち
なほ西天にゆくものあり
それなにのためぞ
至愚のはなはだしきなり
悪業のひくによりて
他国にれいへいするなり
( 梁の普通年間
( [ 梁の武帝の時代 520-527 ]
( 達磨大師が面壁坐禅を
( 中国に伝えた後も
( インドへ学びに行く者がありました
( 何のために行くのでしょうか
( とても愚かなことです
( 過去の悪業により
( 面壁坐禅を理解出来ず
( 自己へ向かえず
( 他国遠方へ彷徨うのです

( 「 私 」 とは
( 自分で自分を指し示す
( そんな言葉でしょうか
( 指差す yubisasu ?
( 指差しは、駅や作業現場で
( 重要な安全確認の時に行われます
( それ以外では違和感があります

( 人差し指での
( 指差しは違和感がありますが
( 指を、手をそろえて
( 下向き系?に向けて
( どうぞコチラへ、な感じは
( 違和感を感じません

( 坐禅で行う手の組み方
( 法界定印
( 両手(指) で円相を作ります
( 親指以外の四指は揃えてるので
( どうぞコチラへ、感があります
( 親指は対峙接触してます

( 法界定印の
( どうぞコチラへ感には
( どっちですか?感があります
( 右手と左手の示す向きが
( →←
( 正確に!逆になってます
( どっちですか? です

( どっちへ行くべきか?
( そう迷う熟考するのは
( ある意味正常です
( どうしようもない、インドへ行ってみよう
( これも正常な考えと言えます
( それは、悪業ゆえにそうなるんです
( と言われても ・・・ てんてんてんです
( すぐに合点がいかないのは
( 当然とも言えます

( 悪業のひくによりて
( 他国にれいへいするなり
( 「 業 」 が自分を引っ張ってゆく
( 一見正当な「 atira を目指そう 」 が
( 現実には業による
( 不当な隷属だと言うわけです
( とは言え、それも一つ考え方で
( そうも言えるでしょう、とも言えます
( しかし、達磨大師の面壁坐禅
( これは一つの考え方ではなく
( その実践実際をお持ちになられてる
( これが道元禅師を含め
( その後の後進方をうならさた
( 所以でしょうか

( 「 atira を目指そう 」
( 目的課題、目標を明確にすべし
( これを世法とするなら
( 達磨大師の仏法は
( 「 atira を目指そう 」 × 6
( × 向きがすべて内十字であり
( 世法とは天地懸隔の違いがあります

( 「 atira を目指そう 」 × 6
( × 向きがすべて内十字
( この達磨大師の面壁坐禅
( これが唯一無二だと
( 道元禅師は述べられています
( しかしこの唯一無二は
( その構造?が唯一無二であり
( 他に例がないかと言うと
( 十字架上で死を通過された
( キリスト・イエスの行いは
( そのものずばりと言えます

( 心身の深奥に
( キリストを受け入れられた方は
( 遠方に神を見上げるのではなく
( まさにキリストに貫かれた
( そう感じておられるのかも知れません
( 行為として十字架の死を受け入れる
( このキリストがなされた行為が
( 自分の深奥で模写される
( これが真のキリスト者の
( 現実を生きる信仰の在りように思えます

( 十字架上で
( 不合理の死を受け入れる
( この唯一無二の行為
( その同じ構造が
( 達磨大師の面壁坐禅の中で
( 東洋のかたちとして
( 東洋の行法として提示されています
( バチカンの神父が
( 坐禅を宗教以前のものとして
( とても尊ばれ、実践なされた
( と言う話しを聞いた事があります
( キリストを真に受け入れるものは
( 坐禅の内容が
( その信仰と寸分違わないことを
( 実感出来るのでしょう

( 「 atira を目指そう 」 の内十字
( × 6 、× 十方ですが
( 「 atira を目指そう 」 の内十字
( × 2 をイメージしても
( この行法がいかに
( 弱者救済を宗としているか
( それが伝わって来ます

( 目的を明確にして進む
( 世法の 「 atira を目指そう 」 は
( 馬力体力?勝負でしょうか
( 一方、内十字の
( 「 atira を目指そう 」 ×2 は
( 微力であっても
( この二つが中心にて
( 一直線上、逆方向で衝突するなら
( その衝撃力はとんでもない
( 数千億のプラントで火を起こす
( これを世法とするなら
( 小石が二つあれば火を起こせる
( どこでも誰でも起こせるんだ
( これが達磨大師の仏法と言えます
.