行 持 「 正種なき 」
- 2020/09/19
- 13:15
正法眼蔵 行 持 下
「 正種なき 」
宿殖般若の
正種なきやからは
祖道の遠孫とならず
いたづらに名相の邪路に
れいへいするもの、あはれむべし
( 過去世に
( 智慧の種を
( 植えていなかったかも
( それゆえ
( 達磨大師の法孫とならず
( いたずらに教理を検索し
( 迷路に幽閉されてしまった
( 致し方ないと言えます

( 過去世に
( 下準備してないから
( 現世でこうなっちゃった
( でもこの方程式は、未来へ向いてます
( 来世 、一千年後に
( 達磨大師の面壁坐禅を
( 親しく感じるためには、一千年前の今
( その種を植えるのが、よろしいと

( あなた様をなんと
( お呼びすればいいのでしょうか
( モーセの問いに
( 神がお答えられます
( 「 私 」 です
( 私とは、どう言うことでしょう
( 私とは、
( 自分が自分を指し示す言葉です

( 自分が自分で自分を指し示す
( これを幾何学的に表すと
( 六本の座標系すべてが
( 座標系の中心を指す感じ
( そう、内十字となります

( 達磨大師の面壁坐禅
( その実際は
( 身の中心を指し示す
( 内十字に他なりません
( 面壁坐禅の実際とは
( 「 私 」 する事に他なりません
( しかし、「 私 」 とは神のお名前です
( この二つを組み合わせると
( 達磨大師は何をなされてたか
( その推測が現れます

( 達磨大師の面壁坐禅
( その中で何が現じていたのでしょう
( 「 私 」 が現じてます
( 内十字なさっておられた、わけですから
( でもそれって
( 神が現じていた、と言う事ですか?
( そう問えます

( 達磨大師や道元禅師は
( だから自分は神なのだ
( そうは述べられません
( 内十字な面壁坐禅をなす時
( 誰でも 「 私 」 をなす事が出来ます
( それすなわち、坐禅の時
( 誰でも 「 神 」 そのものが
( その心身を十字に貫いてると

( でも 「 神 」 そのものが
( この心身を十字に貫くなら
( どんな変化が起こるのでしょう
( 生きた内十字
( その中心はどうなってるのでしょう
( 「 魔 」 がその中心へと
( 吸い込まれ? と言うより
( 押しつぶされ瓦解するはずです
( 生きた 「 点 」 ( 中心 ) とは
( 空間が無限に縮小して行くのですから

( 迷妄と言い、業と言い
( 「 魔 」 は
( 天上の位階では
( 人の太刀打ち出来る相手
( ではない、と言うのが
( 東西を問わず現実を認識されて来た
( 先聖方の共通認識のようです
( 不良大学生力士に、中学生力士が
( かなうわけがないと
( では不良大学生力士に
( どのようにして退場して頂くか

( 大相撲の横綱に助太刀頂く
( 不良大学生力士も
( 横綱にかかれば、なす術がありません
( 世界中で
( キリストをその方の自我にまで
( 受け入れた方が
( 不動の信仰力をお持ちになられたのは
( この道理からも推測されます
( 達磨大師の面壁坐禅には
( 神の名は登場なされませんが
( 「 私 」 そのど真ん中をなしてます
( 我が内なるキリスト、そう述べられた
( パウロのようです

( 内十字 = 「 私 」 の
( その中心はこうなっています
( →←
( この二矢は対峙しておらず
( 正面衝突 ing です
( 自転車で壁に衝突しそう
( そんな時は、本能的に
( 正面衝突を避けます
( 角度をつけて、衝突力を逃がします
( 自転車ですらそうですから
( 車の正面衝突など
( 想像することすら、躊躇されます

( 内十字なる
( 達磨大師の面壁坐禅
( その中心では恐ろしき
( 正面衝突が起きてる
( その正面衝突の破壊力は
( 一般生活からも十分イメージ出来ます
( 「 波もくだけて 光とぞなる 」
( 道元禅師の御歌の一節でした
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