行 持 「 慈 愛 」
- 2020/09/03
- 18:04
正法眼蔵 行 持 下
「 慈 愛 」
かくのごとくして
嵩山に経行するに
犬あり、堯 gyo をほゆ
あはれんべし、至愚なり
( このようにして
( 達磨大師は嵩山にて
( 静謐なる行持を続けられました
( しかし盗人の犬が
( 天子の堯を吠えたように
( 達磨大師を
( 誹謗する人もいたのです
( 哀れむべき愚かな人です

たれのこころあらんか
この慈恩をかろくせん
たれのこころあらんか
この恩を報ぜざらん
( 心ある人ならば
( どうして師の慈恩を
( 軽んじることでしょうか
( 心ある人ならば
( 師の恩に報いようと
( 思うはずです

世恩なほわすれず
おもくする人おほし、これを人といふ
祖師の大恩は父母にもすぐるべし
祖師の慈愛は親子にもたくらべざれ
( 世間の人ですら
( 恩を忘れることはありません
( 恩を尊く思う、それでこそ 「人」 です
( 達磨大師の大恩は
( 父母の恩にも勝れるものです
( 達磨大師の慈愛は
( 比べられないほど深いのです

われらが卑賤 hi-sen
おもひやれば驚怖しつべし
中土をみず、中華にむまれず
聖をしらず、賢をみず
天上にのぼれる人いまだなし
人心ひとへにおろかなり
( 日本の私達が卑賤なことは
( 思えば恐ろしいことです
( 文化の進んだ中国に生まれず
( 見たこともありません
( 中国の聖人を知らず
( 賢者を見たこともありません
( 天上に上った人は無く
( 人の心はまったく未開発なままです

開闢 kai-byaku よりこのかた
化俗の人なし、国をすますときをきかず
いはゆるは、いかなるか清
いかなるか濁としらざるによる
( 天地が開けて以来
( 世俗を教え、導く人がなく
( 国が澄んだ時がありません
( 何故でしょうか
( どのようなことが、澄むことで
( どのようなことが、濁ることか
( それを知らないからです

二柄三才の本末に
くらきによりてかくのごとくなり
いはんや五才の盛衰をしらんや
( 賞罰恩賞、天・地・人
( その道理に暗いので
( そうならざるをえません
( ましてや
( 金、木、水、火、土
( その五行盛衰を
( 知るすべもありません

この愚は、眼前の声色に
くらきによりてなり、くらきことは
経書をしらざるによりてなり
経書に師なきによりてなり
( 眼前の見るもの聞くもの
( 到来するすべてをどう受け入れるか
( それが明らかに非ざるが故に
( 愚迷ならざるをえないのです
( 経書を知らないからであり
( 経書の意味を示す師が
( いないからです

その師なしといふは
この経書、いく十巻といふことをしらず
この経、いく百偈いく千言としらず
ただ文の説相をのみよむ
いく千偈いく万言といふことをしらざるなり
( 師がいなければ
( この経書は幾十巻か分からず
( この経は幾百偈
( 幾千言かも分からず
( ただ文言を
( 読むだけになってしまいます
( そこには幾千偈、
( 幾万言が説かれていることを
( 知るすべもありません

すでに古経をしり
古書をよむがごときは
すなはち慕古の意旨あるなり
慕古のこころあれば
古経きたり現前するなり
( 古経を知り
( 古書を読む人は
( 古人を慕う気持ちがあります
( 古人を慕う心があるから
( 古経がその意味を
( 明かしてくれるのです

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