行 持 「 習 禅 」
- 2020/08/31
- 08:45
正法眼蔵 行 持 下
「 習 禅 」
石門の林間録に云く
菩提達磨、初め梁より魏にゆく
嵩山のふもとに経行 kin-hin し
少林に倚杖 i-zyo す
( 石門の林間録によれば
( 菩提達磨大師は
( インドから梁の国へ渡り
( その後、魏の国へ赴いたと
( そして、嵩山 su-zan のふもと
( 少林寺に静謐坐禅の場をえたと

面壁燕坐 menpeki-enza するのみなり
習禅には非ず
久しくして人 其の故を測ることなし
因て達磨を以て習禅と為す
( 達磨大師は壁に向い
( 静かに坐すのみです
( それは、Step up な習い事
( そのようなものではなかったのです
( 人々は、長い間
( その意味を理解出来ません
( 理解出来ず
( 習練をなされてる、そう見えました

夫れ禅那は、諸行の一なるのみ
何ぞ以て聖人を尽すに足らん
而も当時の人、之を以てす
為史 i-si の者、又従って
習禅の列につらね
枯木死灰の徒 tomogara と伍 tomo ならしむ
( 禅定は
( 多くの修行の中の一つです
( どうしてそれで、達磨大師の
( その行の意味を説明出来るでしょう
( 達磨大師は、習練をなされてる
( そう、当時の人達には見えました
( 歴史家も達磨大師は
( 禅定を習練してる、と判断し
( 死んだ灰のような者と
( 同じグループに分類しました

然りと雖も、聖人は
禅那に止まるのみに非ず
しかも亦 禅那に違せず
易の陰陽より出でて
しかも亦 陰陽に違せざるが如し
( しかし、この聖人の行は
( 禅定修練を超えでてます
( それでいて禅定におさまっています
( それは易が
( 陰陽の二気から発展すれど
( 陰陽の中におさまっているようなものです

梁武、初めて達磨を見し時
即ち問う、「 いかならんか是れ聖諦第一義 」
答えて曰く、「 廓然無聖 」
( 達磨大師に会うことが出来
( 梁の武帝は問います
( 聖人の第一義とはどのようなものでしょう
( 師はお答えになられます
( 滞留するもの、心中にそれがありません
( 一切が静謐の中へ消えゆきます
( 聖か凡か、正か誤か
( 重い規定判断は避けます

( それは、聖なのか凡なのか
( それは、正しいか正しくないか
( これは感覚や感情の内容ではありません
( 内容は滞りなく流れてます
( しかしそれを重く判断する
( その思考スキームは
( 心中に屈強居座ってます

( P C 容量の90%
( そこに O S やソフトの
( program が入ってるとします
( 作業場は10% しかありません
( program
( pro (前もって) gram (書き物)
( たとえば display の90%を
( 固定な広告が占めてたら
( 気が変になりそうです

( そもそも論で
( どんな O S を使おうか
( って選択肢があるはずですが
( O S はバックヤードで
( 機能してるので意識化されません
( 意志感情思考
( そのバックヤードで機能する
( 基幹O S があるかも知れません

( 達磨大師の面壁坐禅は
( 意志感情思考、その基幹 O S を
( 入れ替えられる、入れ替えましょう
( その具体策のようです
( 面壁坐禅の時
( 「 廓然無聖 」 という
( 正法眼蔵O S に入れ替わってます
( 眼が外向きでなく
( 内十字に逆向きになってる
( それだけでも大転換ですし
( 何故、内十字中心へ
( どこまでも視線を投げ込めるか
( 視野が展開するのか
( 日常と比較すれば、驚異的とも言えます

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