行 持 「 法 操 」
- 2020/08/26
- 08:28
正法眼蔵 行 持 「 法 操 」
授手の日くれなんとす
打舂の夜あけなんとす
あるいは師の普説するときは
わが耳目なくして
いたづらに見聞をへだつ
耳目そなはるときは、師またときをはりぬ
( 宗匠のもとには
( 多くの求道者が集まり
( みな同じく指導をこいます
( とはいえ
( 一人一人十分に向き合えば
( 日は暮れてしまい
( うすでつくよう、鍛えんとすれば
( 夜が明けてしまいます
( 師が要諦を説明して下さっても
( 理解する準備が出来てなければ
( 聞き逃してしまい
( 準備が整った時には
( 次の説明が始まっています

耆宿尊年 gi-syuku son-nen の老古錐
すでに拊掌笑呵呵のとき
新戒晩進のおのれとしては
むしろのすゑと接するたより
なほまれなるがごとし
堂奥にいるといらざると
師決をきくときかざるとあり
( 先輩方が
( 談笑している時などは
( 初心後輩のものは
( 末席に連なる
( その機会さえありません
( このように、仏道の堂奥に
( 入れる者、入れない者
( 重く尊い指導を
( 受ける者、受けれない者
( 順調には進まないのです

光陰は矢よりもすみやかなり
身命は露よりももろし
師はあれども
われ参不得なるうらみあり
参ぜんとするに
師不得なるかなしみあり
かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり
( 日々は瞬く間に過ぎて行き
( 身命は、はかないものです
( その中で、師はあっても
( 指導を十分に受けれない
( という、もどかしさがあり
( 求道の心があっても
( 師に巡り合えないという悲しみもあります
( 私は、このような事を多く見て来ました

大善知識、かならず
人をしる徳あれども
耕道功夫のとき
あくまで親近する良縁まれなるものなり
( 優れた師は
( 人を知る力を持っていますが
( 求道者がその道を求める時
( その優れた師に
( 近付ける良縁は稀なのです

雪峰のむかし
洞山にのぼれりけんにも
投子にのぼれりけんにも
さだめてこの事煩をしのびけん
( 昔、雪峰禅師が
( 洞山禅師を訪ねた時
( 投子禅師を訪ねた時
( 思い通り指導を受けれたわけでなく
( いろいろ耐え忍んだであろう
( そのように察せられます

この行持の法操あはれむべし
参学せざらんはかなしむべし
( 雪峰禅師はそれでもなお
( 耐えがたきに耐えて
( 曖昧な理解で、よしとはしませんでした
( これは驚くべきことです
( 雪峰禅師は
( 求道者の本懐理想を
( 私達に残して下さいました
( これを見習わないということは
( 雪峰禅師にとっても
( 私達にとっても
( 悲しむべきことなのです

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