行 持 「 波濤 hato 」
- 2020/08/23
- 14:09
行 持 「 波濤 hato 」
黄檗のむかしは
捨衆 sya-syu して
大安精舎の労侶に混迹して
殿堂を掃灑 so-sai する行持あり
( 黄檗禅師のころ
( 僧堂を離れて
( 精舎を整備する方々と共に
( 伽藍を掃き清める行持がありました

仏殿を掃灑し、法堂を掃灑す
心を掃灑すると行持をまたず
ひかりを掃灑すると行持をまたず
裴 hai 相国と相見せし、この時節なり
( 仏殿を掃き清め
( 法堂を掃き清めます
( 心を清めよう
( そのような意図はなく
( 仏光を掃き清めよう
( そのような意図もありません
( そのような環境で
( 宰相の裴 相国は
( 黄檗禅師はと出会います

唐 宣宗 sen-so 皇帝は
憲宗皇帝第二の子なり
少而 syo-ni より敏黠 bin-katu なり
よのつねに結跏趺坐を愛す
宮にありてつねに坐禅す
( 唐の宣宗皇帝は
( 憲宗皇帝の第二子で
( 子供の頃から聡明でした
( 常日頃、結跏趺坐を好み
( いつも宮中にて坐禅をなされました

穆宗 boku-so は宣宗の兄なり
穆宗在位のとき、早朝罷 sotyo-ha に
宣宗すなはち戯而 ke-ni して
龍牀 ryu-syo にのぼりて
揖群臣勢 ugun-sinsei をなす
大臣これをみて、心風なりとす
すなはち穆宗に奏す
( 穆宗は宣宗の兄にあたります
( 穆宗が天子の位にあった時
( 早朝の政務が終わると
( 宣宗はいたずらで
( 天子の座に上り、挨拶をしました
( 大臣はこれを見て
( 気が狂ってますと穆宗に奏上します

穆宗みて、宣宗を撫而 buni していはく
我が弟はすなわち吾が宗の英冑 ei-tyu 也
ときに宣宗、としはじめて十三なり
( 穆宗はそれを見て
( 宣宗を撫でて述べられます
( 弟は、我々一族の優れた冑 kabuto です
( この時宣宗は、十三歳でした

穆宗は長慶四年
晏駕 an-ga あり
穆宗に三子あり
いはゆる、一は敬宗
二は文宗、三は武宗なり
( 穆宗は長慶四年に亡くなります
( 穆宗には三人の子があり
( 上から、敬宗、文宗、武宗です

敬宗父位をつぎて三年に崩ず
文宗継位するに一年といふに
内臣謀而 bo-ni 、これを易 eki す
( 敬宗は
( 父の後を継ぎましたが
( わずか三年で亡くなります
( 次に文宗が後を継ぎますが
( 一年ほどで臣下が謀り退位させます

武宗即位するに
宣宗いまだ即位せずして
をひのくににあり
武宗つねに宣宗をよぶに癡叔 ti-syuku といふ
武宗は会昌の天子なり、仏法を廃せし人なり
( そして三男の武宗が即位します
( 宣宗は即位前で
( 甥である武宗の国にいました
( 武宗はいつも
( 叔父の宣宗にたいして
( 愚か者の叔父と呼んでいました
( 武宗は唐は会昌年間の天子で
( 仏法を迫害した人です

武宗 bu-so あるとき宣宗をめして
昔日ちちのくらゐにのぼりしことを罰して
一頓打殺して、後華園のなかにおきて
不浄を灌 kan するに復生す
( ある時武宗は、宣宗を呼びつけます
( 昔、父の玉座に上ったことを罰し
( 打殺してしまいます
( 後華園の中に破棄しますが
( 宣宗は生き返ります

つひに父王の邦をはなれて
ひそかに香厳の閑禅師の会に参じて
剃頭して沙弥 sya-mi となりぬ
しかあれども、いまだ不具戒なり
( 宣宗は、父王の国を離れ
( 密かに香厳禅師のもとに参じ
( 髪を剃り落とし、見習い僧となります
( しかし、まだ僧の具足戒は
( 受けませんでした

智閑(シカン)禅師をともとして
遊方 yuho するに、廬山にいたる
ちなみに智閑みづから瀑布を題していはく
崖を穿 uga ち石を透して労を辞せず
遠地まさに知りぬ出処の高きことを
この両句をもて沙弥を釣他 tyo-ta して
これいかなる人ぞとみんとするなり
( 香厳禅師のお供をして
( 廬山へ行く機会がありました
( 禅師は滝をお題に詩をつくります
( この滝はつねに崖をうがち
( 石を砕いています、しかし
( 疲れというものを知りません
( 遠くから見ると
( その有り様がよく分かります
( この詩を見習い僧の宣宗が
( どのように受け止めるか
( 禅師は宣宗の応えを待ちます

沙弥これを続していはく
渓澗 kei-kan 豈 ani よく留め得て住 todo めんや
終 tui に大海に帰して波濤 hato と作 na る
この両句をみて、沙弥はこれ
つねの人にあらずとしりぬ
( 見習い僧の宣宗は、その詩を続けます
( 渓流を、どうして止めることが出来ましょうか
( 終には大海に帰し
( 波濤 hato として砕け散ります
( 香厳禅師はこの詩を聞いて
( 宣宗が普通の人でないことを知ります

のちに杭州
塩官斉安国師の会にいたりて
書記に充するに
黄檗禅師、ときに塩官の首座 syu-so に充す
ゆゑに黄檗と連単なり
( 宣宗は、後に杭州の
( 塩官斉安国師のもとに参じます
( 書記の役目につかれましたが
( その時の首座(修行僧の頭)が
( 黄檗禅師でした
( 宣宗は、黄檗禅師と
( 共に修行された時期があったのです

黄檗ときに
仏殿にいたりて礼仏するに
書記いたりてとふ、
仏に著 tui いて求めず
法に著いて求めず、僧に著いて求めず
長老 礼 rai を用いて何にかせん
( 黄檗がある時
( 仏殿にて仏を礼拝していると
( 書記の宣宗が来て尋ねます
( 仏に執着することなく
( 法に執着することなく
( 僧に執着することがないなら
( 長老はなぜ礼拝するのですか

かくのごとく問著 mon-zyaku するに
黄檗 便掌して、沙弥書記にむかいて道す
仏に著いて求めず、法に著いて求めず
僧に著いて求めず、常に如是の事を礼す
( 書記がそう尋ねると
( 黄檗はその頬をたたきます
( そして述べられました
( 仏に執着することなく
( 法に執着することなく
( 僧に執着することなく
( いつもそのように礼拝しているのです

かくのごとく道しをはりて
又 掌すること一掌す
書記いはく、「太麁生 tai-so-sei なり 」
( そう言って、また
( 書記の頬をたたきます
( 書記は述べます
( 「 荒々しいですね 」

黄檗いはく
遮裏 sya-ri は是れ什麽 somo の所在なれば
更に什麽の麁細 so-sai をか説く
( 黄檗が御答えになられます
( これぞ真実と映る、現実の裏には
( 留めようにも止めること能わずの
( 滝となり山々を下る渓流があります
( それは終には大海に帰し
( 波濤 hato として砕け散ります
( この現実の裏で進む 「 sore 」 を
( 私達は生きようとしています
( 今更、荒々しいとかやさしいとか
( どこにあるでしょうか

また書記を掌すること一掌す
書記ちなみに休去す
( そう言ってまた
( 書記の頬をたたきました
( 書記は了然し黙しました

武宗ののち
書記つひに還俗して即位す
武宗の廃仏法を廃して
宣宗 sen-so すなはち仏法を中興す
宣宗は即位在位のあひだ
つねに坐禅をこのむ
( 武宗が亡くなった後
( 書記の宣宗は還俗し即位します
( 宣宗 sen-so は廃仏法を改め
( 再び仏法を興します
( 宣宗は在位の間、常に坐禅を好みました

未即位のとき
父王のくにをはなれて
遠地の渓澗に遊方せしとき
純一に辨道す
即位ののち、昼夜に坐禅すといふ
( 宣宗は
( 即位していない時代
( 父王の国を離れ
( 遠方渓流の地におられましたが
( 純一に静謐坐禅行を続けられ
( 即位の後も、昼夜に坐禅したといいます

まことに、父王すでに崩御す
兄帝 また晏駕 an-ga す
をひのために打殺せらる
あはれむべき窮子なるがごとし
( まことに宣宗の半生は
( 有為転変試練の連続だったと言えます
( 父王は既に亡くなり
( 跡を継ぐ兄もまた亡くなり
( 甥のために殺されかかれ
( さまよい歩く捨て子のようです

しかあれども、励志 rei-si うつらず
辨道功夫す。奇代の勝躅 syo-tyoku なり
天真の行持なるべし
( しかし、静寂静謐へと
( 内十字に砕け散る坐禅行
( これを師として常に歩まれました
( 稀にみる足跡です
( これぞ稀代の行持です

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