行 持 「 稟 受 」
- 2020/08/13
- 13:57
行 持 96 )
仏祖の面目骨髄、これ不去なり
如去なり、如来なり
不来なりといへども
かならず一日の行持に稟受 bonzyu するなり
( 坐禅の功徳により
( 古鏡に反射された森羅万象が
( 私のカルマが、ここに集って来ます
( これが途切れる事はありません
( 来る如く、去る如く
( 来たように見え、去ったように見えます
( しかしそれらは
( 私自身なのですから
( 改めて来たわけではありません
( しかしそれが、意識下の業風として
( 私達を揺り動かすのか
( これが私なのだと立ち現れるか
( これは大きな大きな違いです

しかあれば
一日はおもかるべきなり
いたづらに百歳いけらんは
うらむべき日月なり
かなしむべき形骸 keigai なり
( この一日は
( とても大事な一日です
( いたずらに百年生きることは
( 残念な日月なのです
( 悲しい、人の在り方となるのです

たとひ百歳の日月は
声色の奴婢 nuhi と馳走 tiso すとも
そのなか
一日の行持を行取せば
一生の百歳を行取するのみにあらず
百歳の他生をも度取すべきなり
( 百年の日月を
( わけもわからず走り回って来た
( ここで、神妙坐禅に巡り合い
( この行をなす事が出来れば
( 今生百年を整理する事が出来るでしょう
( さらに
( 神妙寂滅の門
( これを身中に持つことにより
( 他生の中に今も生きる苦痛を
( 神妙寂滅の功徳で
( 温め、静めることが出来ます

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