行 持 「 不唖漢 」
- 2020/07/17
- 06:47
行 持 47 )
仏道かくのごとし
仏道声をきかざらんは
不語の不唖漢なる道理あるべからず
( 自らの意志で
( 身離れに馴れて行く
( これが仏道行持の中核と言えます
( 神仏の社 yasiro
( その建立の資材としてこの身を供する
( この身は社の木材石材となります
( 自分の恣意的運用を離れた時
( この身は新たな環境を見出すはずです
( 身体が木材石材となった時
( その身が耳にするのは暁の谿声山色
( 深くて温かい静寂の深奥が己を開示します
( A が黙すると、 B が蘇り語りはじめます

[ 深くて温かい静寂の深奥
[ 死の門の先にそれは実在してる
[ パウロが述べた「 我が内なるキリスト 」
[ これは信仰の虚構ではなく
[ 西洋・東洋、二つの道から
[ 証明しうる実在であると言えます
[ と言えますが
[ これが確信となるには
[ 自らの意志でこの身を供する
[ と言うリンクを押す必要があります
[ 神々は盲目の信者を良しとせず
[ 自らの意志を行使しうる
[ 個々人の自由を尊重してると言えます
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