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行 持  「 いかんともせじ 」




行 持   45 )


あるとき、衆にしめしていはく
なんじ若し一生叢林を離れず
不語なること十年五載すとも
人のなんじを喚んで
唖漢と作すことなからん
已後には諸仏もまた
なんじをいかんともせじ


 ( 趙州従諗( Jūsin )禅師は述べられました
 ( 五年十年と何も語らず
 ( 一生涯威儀行持を保持して行く
 ( これを「 声を失くした者 」
 ( と見るのは間違いです
 ( 後には諸仏でさえ
 ( その人を如何ともする事は出来ません



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 [ 身体に深く入り込んでる
 [ 私=身体 くらい入り込んでる
 [ しかし、身体は生老病死が宗です
 [ 身体の死が必定なら
 [ しかも 私=身体 なら
 [ 私はいずれ帰属する家を喪失してしまいます

 [ 威儀坐禅の行持とは
 [ 身体を坐禅に供する事に他なりません
 [ 帰る家を失くした時
 [ 私も同時に消滅するのでしょうか
 [ 世界を失くしたような絶望を味わうでしょうか

 [ 趙州従諗( Jūsin )禅師は
 [ その帰るべき家を喪失しても
 [ 幾十年と豊かにお暮しなされた
 [ 「 私 」 がその自由意志を行使して
 [ 身体以外にも帰属出来うる
 [ それを証明実践なされたと言えます





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プロフィール

佐々木正巳

Author:佐々木正巳
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「国際交流のための坐禅会」

(ご希望に合わせ随時開催・参加費無料)

2006 東京国立博物館(上野) にて開催
2006~2015 仙台国際センターにて毎月開催
2022 ~  仙台 国見にて随時開催



かつて馬祖 baso の会 e に参じてとふ
「 如何是仏 nyoga-zebutu 」と
馬祖いはく
「 即心是仏 sokusin-zebutu 」と
法常このことばをききて
言下大悟 gonka-taigo す




法常禅師 Ho-zyo zenzi が
馬祖 baso 禅師の坐禅道場で
静かにお坐りになられてる
傍目にそのお姿は、静止してて
水面静まりけり、死人のように見えます
その死んだ水面に、天地が語りかけます
陽光星辰は一瞬も滞らず、その歌を奏でます

法常禅師はある時
馬祖禅師にご質問なされた
「 仏とは、どのようなものですか 」

馬祖禅師が答えます
「 坐禅においては、心が仏となります 」






宮城県仙台市青葉区国見5-6-18
( 5-6-18 kunimi Aobaku Senndai )


仙台にお越しの折は
気軽にお寄り下さいませ

ご連絡先はコチラでした!
090-7325-5711



師 沼田 勇 先生 



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文章を通しての師

Rudolf Steiner 先生
Kōdō Sawaki
沢木 興道 老師 ( 曹洞宗 )










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