行 持 「 いかんともせじ 」
- 2020/07/16
- 08:43
行 持 45 )
あるとき、衆にしめしていはく
なんじ若し一生叢林を離れず
不語なること十年五載すとも
人のなんじを喚んで
唖漢と作すことなからん
已後には諸仏もまた
なんじをいかんともせじ
( 趙州従諗( Jūsin )禅師は述べられました
( 五年十年と何も語らず
( 一生涯威儀行持を保持して行く
( これを「 声を失くした者 」
( と見るのは間違いです
( 後には諸仏でさえ
( その人を如何ともする事は出来ません

[ 身体に深く入り込んでる
[ 私=身体 くらい入り込んでる
[ しかし、身体は生老病死が宗です
[ 身体の死が必定なら
[ しかも 私=身体 なら
[ 私はいずれ帰属する家を喪失してしまいます
[ 威儀坐禅の行持とは
[ 身体を坐禅に供する事に他なりません
[ 帰る家を失くした時
[ 私も同時に消滅するのでしょうか
[ 世界を失くしたような絶望を味わうでしょうか
[ 趙州従諗( Jūsin )禅師は
[ その帰るべき家を喪失しても
[ 幾十年と豊かにお暮しなされた
[ 「 私 」 がその自由意志を行使して
[ 身体以外にも帰属出来うる
[ それを証明実践なされたと言えます
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