行 持 「 弁道に生死をみる 」
- 2020/06/08
- 11:49
行 持 21 )
しかあれども
時人の譏嫌をかへりみず
誓願の一志不退なれば、わづかに
三歳をふるに、弁道現成するなり
たれか見賢思斉をゆるくせん
年老耄及をうらむることなかれ
この生しりがたし
生か、生にあらざるか
老か、老にあらざるか
四見すでにおなじからず
諸類の見おなじからず
ただ志気を専修にして
弁道功夫すべきなり
弁道に生死をみるに
相似せりと参学すべし
生死に弁道するにはあらず

きょう尊者は
まわりの誹りに屈せず
一志不退、三年を経て弁道につかれた
とは言え
ある年齢を過ぎれば
今さら、どうにもならないのでは
そう感じるのは今も昔も同じ哉です
「 この生しりがたし
生か、生にあらざるか
老か、老にあらざるか
四見すでにおなじからず
諸類の見おなじからず 」
生身の身体には、寿命がある
これは当然の事で
私と言う存在の核、それはゴーストで
当然二千年前は別の身体で自分してた
そして二千年後はまた別の身体で
自分をする事となる
これが事実とすると
いつ始めてもいいわけですので
遅いと言う事は
意味を持たなくなります
祖師方は
生まれかわり、死にかわりな
悠久の継続の中で所見をなすので
そこを理解しないと
何を述べられてるか不明となります
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