光 明 「 通身是眼睛時なり 」
- 2020/04/30
- 08:58
光 明 26 )
雪峰山真覚大師、示衆云
僧堂前に、諸人と相見し了れり
これすなはち
雪峰の通身是眼睛時なり
雪峰の雪峰を見する時節なり
僧堂の僧堂と相見するなり
保福、挙して鵞湖に問ふ
僧堂前は且く置く
什麼の処か望州亭、烏石嶺の相見なる
鵞湖、驟歩して方丈に帰る
保福便ち僧堂に入る
いま帰方丈、入僧堂、これ話頭出身なり
相見底の道理なり、相見了也僧堂なり
地藏院真応大師云、典座庫堂に入る
この話頭は、七佛已前事なり

「 僧堂佛殿厨庫三門 」
僧堂 - お家があって
佛殿 - 仏を祀って
厨庫 - 生活がある
敵は本能寺にあり、戦場は今ここ
普通の生活の中にあり
只、ちがうのは ・・・「 通身是眼睛時なり 」
私達は外界をどのように見てるのでしょう ?
文字通り「 お外 」に見てる
確かにその通りですが
確かに「 お外 」ですが
自身の目を見てる ?? これは詭弁でしょうか
神妙にしてなさい!
ワンッ! てなもんですが
「 自分で自分を自分が自分する 」
この神妙時、 「 通身是眼睛時なり 」
目を見て、外界を見る
それが
神妙にしてなさい!ワンッ!の時
転じて
自身( 身体 )を通して外界を見る
と転換します
神妙にしてなさい! ワンッ!
その時なぜか
「 外 」を我が事のように尊べる ?
神妙にしてなさい! ワンッ!
これはおバカさんか、あるいは
paradigm shift か
.