光 明 「 拈光爲道 」
- 2020/04/23
- 12:00
光 明 19 )
人人、自有、光明在と道取するを
あきらかに聞持すべきなり
百千の雲門をあつめて同参せしめ
一口同音に道取せしむるなり
人人、尽有、光明在は
雲門の自構にあらず
人人の光明みづから拈光爲道なり

一部の稀な趣味人が
坐禅 ( 威儀 ) をなさってこられた
それが事実と言えます
では、それに一般性はない
かと言うと、ないどころか
大ありどころじゃない! でしょうか
「 光明在は、雲門の自構にあらず 」
持って生まれて来るでなく
神棚から降って来るでもなく
「 自分で 」 ひねりだすものだと
呼吸や血液の循環
それが自然に意識する事なく
健全に機能するのは、二十歳くらいまでかも?
そんな仮説も可能かも、です
じゃ、その後は?
その答えをいにしえに求める
「 主は、土の塵で人をつくり
命の息を吹き入れられた
命の息を吹き入れられた人は
生きる者となった 」
..........................創世記
他に対し、「 主 」になろうとする
ちょっと無理あるんじゃないですか
DV じゃないですか、ですが
自ら( この身 ) に対し、
「 主 」になろうとする
これは健全な感じがします
創世記の
「 主は、土の塵で人をつくり
命の息を吹き入れられた
命の息を吹き入れられた人は
生きる者となった 」
この 「 主 」 を自らが代行する
自分が自分で自分へ息を吹きこむ
創世記は、坐禅において
現実において蘇ると言えます
「 自分が自分で自分を自分する 」
..........................澤木興道 (1880 - 1965)
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