坐禅箴 「 足下無糸 」
- 2020/01/19
- 16:27
坐禅箴 39)
飛空の行履、はかるべきにあらず
飛空は尽界なり、尽界飛空なるがゆえに
この飛、いくそばくと
いふことしらずといへども
卜度のほかの道取を道取するに
杳々と道取するなり
直須足下無糸去なり
空の飛去するとき、鳥も飛去するなり
鳥の飛去するに、空も飛去するなり
飛去を参究する道取にいはく
只在這裏なり、これ兀々地の箴なり
いく万程か只在這裏をきほひいふ

正法眼蔵第十二巻は、「坐禅箴(Zazen Sin)」 でした
直 tada
須 subekaraku
足下無糸 にて、去 yuku べし
「 足下無糸 」とは
支えを失くした状態を述べられてる?
そのようにも推測されます
頭で考える or 身体で考える
どこで考えるに関わらず
その思考 Areaは
PCのメモリーspaceのように
頭部にある三半規管が前もって
準備してなければならない
そう思われます
思考は空間イメージに沿って
あるいは平面イメージに
あるいは直線イメージに沿ってなされる
この空間・平面・直線イメージこそ
思考の支えではないかしらと
次に筆を進めますと
この思考の「 支え 」なしに
思考は成立するだろうか、と問えます
点とは、体積も面積も
距離も有さないもの、そうしますと
「 点 」へと接近を図っても
どんどん中心へ「かくれんぼ」する
生きた理念として現れるでしょうか
三半規管プレゼンツな
3D2D1D 思考世界
それと
腰腹一点プレゼンツな
点 /0D 観察実体はその趣が
かなり異なるのではと推測されます
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