坐禅箴 「 無偶無取 」
- 2020/01/14
- 15:40
坐禅箴 34)
このゆえに無偶なり、このゆえに無取なり
これを奇なりと住持しきたり
了なりと保任しきたるに、我却って疑著せりなり

正法眼蔵第十二巻は、「坐禅箴 (Zazen Sin) 」 でした
息が背筋を
吐いて Down し 、吸って Up する
この威儀形成の中で
何がなされているのだろう? という問いでした
一人一人一名一名
まったく違う時間空間の中
御暮らしなされてる、そう推測されます
世界( 内面 ) はどう形成されるのだろう?
目耳鼻や皮膚
これを物質構造と見てみます
これにエーテル体( 生命体 ) が参画して
生きた感覚器官となり外界を受け止めます
それは小川のせせらぎのよう
束の間に過ぎ、止まる事を知らず
でしょうか
そしてそれを保持せんと
アストラル体 (感受体 ) が次に加わり
神経をもってそれを内面化せんとす
でしょうか
次にこの神経のA4レポートは
如何に読み解かれて
己固有な内面世界を構築するのでしょう
息と血流が
ページをめくり本に目を通すように
背筋を吐きつつ下り、吸いつつ上り
感覚と神経から、内面世界を構築なされる
そして「 息と血流 」その運用には
人を動物と分かつ「 自我 」が関わっていると
世界は新鮮を宗とし
とどまる事をしらず
やがて冬は過ぎ、春は来れり
過ぎたるものは無偶無取でしょうか
消息が途絶えしを何処で知るか
息を吐ききり鎮まりけりな
腰腹において、でしょうか
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