坐禅箴 「 毫忽の兆無し 」
- 2020/01/14
- 14:02
坐禅箴 32)
其の照自から妙なり
曾て毫忽の兆無し
毫忽といふは尽界なり
しかあるに
自妙なり、自照なり
このゆえに
いまだ将来せざるがごとし
正法眼蔵第十二巻は、「坐禅箴(Zazen Sin)」 でした
「 音楽は,
静寂の中から生まれ
静寂の中へ帰って行く 」
ピアニスト、アファナシエフさんには
音楽はそのように自己を開示してくれる
一方、宏智禅師においては
息が背筋を Down (吐息) / Up (吸気) する
この威儀形成の中に
静寂と生成の秘密が開示される
何故なのだろう? と言う問いです
息が背筋を 吐いて Down し 、吸って Up する
この威儀形成の中で
何がなされているのだろう?
ここで初めて
Rudolf Steiner 先生の
「 人の四重奏 」構造が視界へ
入ってこざるをえず、でしょうか
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