坐禅箴 「 打坐すでになんぢにあらず 」
- 2020/01/04
- 11:50
坐禅箴 19)
しかあればすなはち
古来なりといへども
坐禅を坐禅と知れるすくなし
いま現在大宋国の諸山に
甲刹の主人とあるもの
坐禅をしらず、学せざるおほし
あきらめ知れる
ありといへどもすくなし
諸寺にもとより
坐禅の時節さだまれり
住持より諸僧
ともに坐禅するを本分の事とせり
学者を勧誘するにも坐禅をすすむ
しかあれども
しれる住持人まれなり
このゆえに
古来より近代にいたるまで
坐禅銘を記せる老宿一両位あり
坐禅儀を撰せる老宿一両位あり
坐禅箴を記せる老宿
一両位あるなかに
坐禅銘、ともにとるべきところなし
坐禅儀、いまだその行履にくらし
坐禅をしらず、坐禅を単伝せざる
ともがらの記せるところなり
景徳伝燈録にある坐禅箴
および嘉泰普燈録にあるところの
坐禅銘等なり
あはれむべし、十方の叢林に
経歴して一生を過ごすといへども
一坐の功夫あらざることを
打坐すでになんぢにあらず
功夫さらに
おのれと相見せざることを
これ坐禅のおのれが身心を
きらふにあらず
真箇の功夫をこころざさず
倉卒に迷酔せるによりてなり
かれらが所集は
ただ還源返本の様子なり
いたづらに息慮凝寂の経営なり
観練薫修の階級におよばず
十地等覚の見解におよばず
いかでか仏々祖々の坐禅を単伝せん宋朝の録者
あやまりて録せるなり晩学すててみるべからず

正法眼蔵第十二巻は 「坐禅箴(Zazen Sin)」でした
「 打坐すでになんぢにあらず 」
都会に住んでても
早朝明け方の空、刻一刻
赤やオレンジ色が織りなす
色彩の舞いは圧倒的なものです
圧倒的なもの打たれる時
それは汝(自己)に由来せりか?
感受性あればこそ、ですが
その内容は「 天地の荘厳 」
に由来なさってる
「 打坐すでになんぢにあらず 」
坐禅の中で
「 天地の荘厳 」が己を開示する
その荘厳は「なんぢ」に由来せず
と言う事でしょうか
なんだ、自分が偉くなって
荘厳化するんじゃないんですか?
って [ がっかり ] もありですが
坐禅が「 天地の荘厳 」を担保してくれる
結果往来!でしょうか
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