坐禅箴 「 不執坐相 」
- 2020/01/01
- 06:48
坐禅箴 16)
若執坐相、非達其理
いはゆる執坐相とは
坐相を捨し、坐相を触するなり
この道理は、すでに坐仏するには
不執坐相なることえざるなり
不執坐相なることえざるがゆえに
執坐相はたとひ玲瓏なりとも
非達其理なるべし
恁麼の功夫を脱落身心といふ
いまだかつて坐せざるものに
この道理のあるにあらず
打坐時にあり、打坐人にあり
打坐仏にあり、学坐仏にあり
ただ人の坐臥する坐の
此の打坐仏なるにあらず
人坐のおのづから
坐仏・仏坐に相似なりといへども
人作仏あり、作仏人あるがごとし
作仏人ありといへども
一切人は作仏にあらず
ほとけは一切人にあらず
一切仏は
一切人のみにあらざるがゆえに
人かならず仏にあらず
仏かならず人にあらず
坐仏もかくのごとし

正法眼蔵第十二巻は 「坐禅箴(ざぜんしん)」でした
頭頂・眉間・人中・鳩尾と
息をはきて身体前面(任脈)を下る
息をすい背中(督脈)を上る
もって姿勢威儀を正す、あぁ清々する
いつでも
こうなるかと言うと
ならないですね=清々せずです
Down & Up これが身体の前うしろ
2Root 分離体感出来る時
Down & Up 「非定相の荘厳」が
視界に入るよう、そんな感じです
ちょっとすると
背筋を伸ばす威儀を正す
それはいいのですが
卒塔婆を一本立てるが如し
一本であって2Rootシステムが
どこか行っちゃう
「執坐相」「不執坐相」の違い
それは一本の背筋とは言え
微妙な違いのよう感じられます
どう微妙かと言うと
「執坐相」は「坐相を触するなり」
そう、このDown & Up は
天地の荘厳ゆえに
文学的に述べれば神の顕現でしょうか
尊いものゆえ、近づいたり
まして触るなどもっての他
なのかも知れません
これは単純な態度の問題
と言えるかも知れません
天地の荘厳・神の顕現が在るから
そうするのでなく
天地の荘厳・神の顕現に対する如し
その態度が
天地の荘厳・神の顕現が在るに等しとあいなる
ここで実践レポートです
「坐相を触する」と言い
2Rootが消えると言い
何故一本に固まるか?です
その原因の推論はこうです
背筋が無意識に安定化する
そんな傾向を持っているから
急に任脈・督脈が
何故意識化されて来たか?
お尻の下を木片にして
わざと「やじろべい」みたいに
不安定化して坐ってみる
これを始めてからです
「面で坐る」を改め
不安定な一線
揺れそうなトコに坐る
一本に束ねられ
安定化してた背筋が
不安定にさらされ2本に分離する
でしょうか
しかし楽しきは安定するとすぐ
一本背筋に戻っちゃう
如何に不安定に坐り
不安定に立ち不安定に動くか
Down & Up
任脈督脈が分離躍動し
天地の荘厳を開示してくれる
実践上は
「面」接を拝し、如何に
「線」接・「点」接を保持するか
これにかかってるのでは、
不安定を安定させんとする
ぎり一線のところに
天地の荘厳・神の顕現が現れる
はい、天地の荘厳・神の顕現は
「働き」であるのかな、でした
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