坐禅箴 「 打車の法 」
- 2019/12/30
- 08:55
坐禅箴 11 )
世間に打車の法なし
凡夫に打車の法なくとも
仏道に打車の法あることをしりぬ
参学の眼目なり
たとひ打車の法
あることを学すとも
打牛と一等なるべからず
審細に功夫すべし
打牛の法たとひ世の常にありとも
仏道の打牛は
さらにたづね参学すべし
水牛を打牛するか
鉄牛を打牛するか
泥牛を打牛するか
鞭打なるべきか
尽界打なるべきか
尽心打なるべきか
打迸髄なるべきか
拳頭打なるべきか
拳打拳あるべし
牛打牛あるべし

正法眼蔵第十二巻は 「坐禅箴(ざぜんしん)」でした
私達が見聞きする時
無意識でその形状や音感を
我が身でトレースしている
この方程式、是か非か
私には、おおいに
在り得ると思われます
めったに有りませんが
圧倒的自然の風景に対した時
心身共にその壮大さに打たれる
何に打たれるかで
心身に何が鏡像鏡響するか
大いに変わりますが
このトレース力は
無意識に眠るとは言え
皆お持ちだと推測されるわけです
さて大風呂敷に述べれば
「自由」とはこれ如何?
の問題にここで立ち至るかと
無意識に眠るこのトレース力
それを意識化する事が
自由ではないか?との推論です
無意識で悲惨な牢獄を
トレースしちゃってる
それを脱するには違う何かを
トレースすればいいのでしょうが
いかんせん、そのトレースは
意識下でなされてて
身動き出来なくなってる
頭頂・眉間・人中・鳩尾と
息をはき身体前面・任脈を下る
息をすい背中・督脈を上る
もって姿勢威儀を正す、あぁ清々する!
何か意味あるのですか?
ですが
何故清々するのか、です
一つの推論はこうです
してる事は単純な事です
何をしてるのでしょう
Down & Up って単純な事です
真摯になせば Down & Up で
止まる事なき一円を描いてる
修行僧を「雲水」と呼びしは
ゆえある事かと
雲をなし雨と下り
日を受けて天へ上る
その繰り返しに四季が共鳴す
何をトレースするかで
その豊かさが規定されるとしたら
「雲水」はそりゃ豊なりけりですね
頭頂・眉間・人中・鳩尾と
息をはき身体前面・任脈を下る
息をすい背中・督脈を上る
もって姿勢威儀を正す、あぁ清々する!
このDown & Up の中に
天上四季なる豊かさは映りけり
でしょうか
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