坐禅箴 「 古鏡明鏡 」
- 2019/12/29
- 09:55
坐禅箴 8 )
南学いはく、磨して鏡となす
この道旨、あきらむべし
磨作鏡は、道理かならずあり
見成の公案あり、虚設なるべからず
瓦はたとひ瓦なりとも
鏡はたとひ鏡なりとも
磨の道理を力究するに
許多の榜様あることをしるべし
古鏡も明鏡も
磨瓦より作鏡をうるなるべし
もし諸鏡は磨瓦より
きたるとしらざれば
仏祖の道得なし、仏祖の開口なし
仏祖の出気を見聞せず

正法眼蔵第十二巻は 「坐禅箴(ざぜんしん)」でした
頭頂・眉間・人中・鳩尾と
息をはき身体前面・任脈を下る
息をすい背中・督脈を上る
もって姿勢威儀を正す、あぁ清々する!
これを↑改めて考察してみると ・・
20年前/40年前の
シャンと威儀を正し背を立てる
その外形と、ほとんど変わらず
な感じがします
瓦を磨いても鏡にはならず
ぱっとしない坐禅(姿勢)
それを続けてれば
いずれ、ぱっとなるようになる
いや、そうはならない
と言う事実が一方にあり
一方に、古鏡明鏡も
めげずな磨鏡の先に現出する
と言う事実がある
この相矛盾する事実は
どう理解すればいいのでしょう
今日の推論はこうです
色々坐禅(姿勢)の試行錯誤を続ける
威儀を正すと形は決まってます
様々な背の建て方
威儀の正し方があるはずです
外形は同じように見えても
例えば現在進行中の
任脈(下り)督脈(上り)の理念からの
背の建て方、その建築様式は
ピラミッド建築とゴシック建築
その違いくらいまったく違うもの
鏡と瓦ほど全く異質なもののよう
感じられます

ゴシック建築をどう変化させても
ピラミッド建築にはならず

ピラミッド建築は
天上を地に反映させるもの
ゴシック建築は
地から天上へ思いをはせるもの
まったく違う思考世界です
威儀を正す、背を建てる
こんな単純な事でも
建築と同じように
まったく違う思考世界を志向する
違う建造物が建築可能なのだと
推測されます
さらに推論するなら
祖師方の坐禅(姿勢)は
天上を地(身体)に反映させるもので
地(身体)を拡大拡張させて
天上を制覇しようと
するものではないだろう
そう推測されるわけです
そしてこの推論を
レポート出来るようなったのは
徒労?の磨鏡を続けてて
上から下へのラインを実感
出来たからと言う単純な推移
でしょうか
何年、徒労磨鏡を続けようとも
振り返れば
別に何と言う事もないですね
めげずに頑張ろう!です
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