坐禅箴 「 通 路 」
- 2019/12/28
- 12:09
坐禅箴 7 )
南嶽ときに一瓦をとりて
石上にあてて研ぐ
大寂つひに問うにいはく
師、何をかなす
まことに、誰か
これを磨せんとみざらん
誰かこれを磨せんとみん
しかあれども
ませんはかくのごとく
そしもと問せられきたるなり
作什麼なるは
かならず磨せんなり
此土他界ことなるといふとも
磨せんいまだやまざる宗旨あるべし
自己の所見を
自己の所見と
決定せざるのみにあらず
万般の作業に参学すべき宗旨
あることを一定するなり
しるべし、仏をみるに
仏をしらずえせざるがごとく
水をみるをもしらず
山をみるをもしらざるなり
眼前の法、さらに
通路あるべからずと
倉卒なるは、仏学にあらざるなり

正法眼蔵第十二巻は 「坐禅箴(ざぜんしん)」でした
瓦を磨いて、鏡にしよう
これは無理ばなしの譬えでしょうか
祖師方は頭脳明瞭ですから
無理は無理とはっきりされてます
現実生活では
状況(環境)をどうこうする
それはほとんど無理である
が道理でしょうか
偉い人は自由かと言うと
重責を負ってるので実は
自由度は小さいのが実情かと
仏になるとか神髄を極めるとか
それと同じように
幸せになるとか強くなるとか
そんな、やっみなければ
結果が分からないような
そんな曖昧な事は
道元禅師や祖師方は一切関せず
とにかく頭脳明瞭なので
負け戦はせず、でしょうか
環境とか相手とか
当てにならないものには関せず
頭頂・眉間・人中・鳩尾
息をはき身体前面を下る
息をすい背中を上る
もって姿勢威儀を正す
あぁ清々する!でしょうか
必強必勝なるlifeStyleですね
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