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坐禅箴  「 初心いづれのところに 」



坐禅箴  3 )


しかあるに
近年おろかなる杜撰いはく
功夫坐禅は
胸襟無事なることを得了りぬれば
便ち是れ平穏地なり

この見解、なほ
小乗の学者におよばず
人天乗よりも劣なり
いかでか学仏法の漢といはん
見在大宋国に恁麼の功夫人おほし
祖道の荒蕪かなしむべし

又一類の漢あり
坐禅弁道はこれ
初心晩学の要機なり
かならずしも仏祖の行履にあらず
行も亦禅、坐も亦禅
語黙動静に体安然なり
ただいまの功夫のみに
かかはることなかれ

臨済の余流と称するともがら
おほくこの見解なり
仏法の正命つたはれること
おろそかなるによりて
恁麼道するなり
なにかこれ初心
いづれか初心にあらざる
初心いづれのところにかおく




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正法眼蔵第十二巻は 「坐禅箴(ざぜんしん)」でした


「おろかなる杜撰」とか
「臨済の余流と称するともがら」とか
道元禅師が否定的に指摘せざるをえないのは
何故なのでしょうか


一つの推察はこうです
坐禅(姿勢)は人の営みであるけど
人の次なる進化の形であって
坐禅(姿勢)それ自体は
人とは離れてそれ独自の営み
思考世界をお持ちになってる

それを採用するかしないか
歩みを進める進めないかは
個人の自由に委ねられてる
とは言え
歩みを進めるのはコチラで
坐禅(姿勢)がコチラへ退化して来る
それはないから

こちらが思考世界を変えず
坐禅(姿勢)を取り込もうとしても
何ものも生まない
それは坐禅が一時は隆盛したけど
その後見受けられなくなった
それが証明してるかも

坐禅(姿勢)は社会に対しては
なんら影響力をお持ちでない
一方個人に対しては
千年前もそして今令和の時代でも
いつでも門戸を開いてる
でしょうか






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