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坐禅箴 「 不思量底如何思量 」


正法眼蔵第十二 坐禅箴(ざぜんしん)

僧のいふ
不思量底如何思量

まことに不思量底
たとひふるくとも
さらにこれ如何思量なり
兀々地に思量なからんや
兀々の向上
なにによりてか通ぜざる

賤近の愚にあらずは
兀々地を問著する
力量あるべし思量あるべし

大師云く、非思量
いはゆる非思量を使用すること
玲瓏なりといへども
不思量底を思量するには
かならず非思量をもちゐるなり

非思量にたれあり
たれ我を保任す
兀々地たとひわれなりとも
思量のみにあらず
兀々地を挙頭するなり
兀々地たとひ兀々地なりとも
兀々地いかでか兀々地を思量せん

しかあればすなはち
兀々地は仏量にあらず
法量にあらず、悟量にあらず
会量にあらざるなり

薬山かくのごとく単伝すること
すでに釈迦牟尼仏より
直下三十六代なり
薬山より向上をなづぬるに
三十六代に釈迦牟尼仏あり
かくのごとく正伝せる
すでに思量箇不思量底あり。



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正法眼蔵第十二巻は 「坐禅箴(ざぜんしん)」でした

思量せずのさらに底を
如何に思量すればいいのでしょうか
( 不思量底いかんが思量せん )

昔話のどうでもいい
問答と見る事も出来ます
でも、現実から見れば
怒りが苦しみにロックされて
時に自由を失くしてしまう
この問題は千年前も今も
未解決テーマな感じがします


思考を自由に展開出来うる
その可能性の低さと言ったら
豪華客船で世界一周
することの方が遥かにあり哉と


坐禅(兀々地)で
縦系座標系を引く事が出来ます
頭頂・人中・鳩尾を下るライン
息をはく時このラインを下り
息をすう時、背中を上がって来る

これを神妙になす時
3D空間を観察するものとなってる
観察者自身(私)は自覚出来なくとも
4次元に立ってると推測されます

これはドエライ事です
3+1=4の足すところの1は
時間であると推測されます

時間を手に入れたとは、
水に流さずとも
一切は止まる事なく流れてる
止めようがない世界に息ずいてる
我が辞書に「拘束」はあらずです

と申しますか世界に「拘束」を
見いだせないので当然の帰結です
これはドエライ事です






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