坐禅箴 「 非思量 」
- 2019/12/27
- 08:55
正法眼蔵第十二 坐禅箴(ざぜんしん)
薬山弘道大師
坐次に有僧問ふ
兀々地思量什麼
師云く、箇の不思量底を思量す
僧云く、不思量底如何思量
師云く、非思量
大師の道
かくの如くなるを証して
兀坐を参学すべし、兀坐正伝すべし
兀坐の仏道に伝れる参究なり
兀々地の思量
ひとつにあらずといへども
薬山の道は其一なり
いはゆる思量箇不思量底なり
思量の皮肉骨髄なるあり
不思量の皮肉骨髄なるあり

正法眼蔵第十二巻は 「坐禅箴(ざぜんしん)」でした
思う・思わない
この対比はすぐ忘れられて
無邪気なものです
深刻なのは「ある思い」が
生体に働きかけて
びくともしない「牢獄」を
現実に作ってしまう所でしょうか
坐禅と言う姿勢は
それ自体が一つの「思考」
であると推測されます
姿勢からある「思考」を
導く事が出来うる、何故ならば
坐禅と言う姿勢それ自体が
一つの「思考」を形成してるから
どんな思考?
それは3D思考でしょうか
3軸空間を表象して何か意味あります
そう問えます
平面(2次元)を認識出来る時
その観察者は空間(3次元)から見てる
と推測されます
空間(3次元)を認識してる時
その観察者はその次元を超え出てる
そう推測されるし
実感においてもそれは証明出来うる
そう推測されるわけです
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