坐禅儀 「 不染汚の修証なり 」
- 2019/12/26
- 09:07
正法眼蔵「 坐禅儀 」 7)
かくのごとく身心をととのへて
欠気一息あるべし、兀々と坐定して
思量箇不思量底なり
不思量底如何思量
これ非思量なり
これすなはち坐禅の法術なり
坐禅は習禅にはあらず
大安楽の法門なり不染汚の修証なり

正法眼蔵 第十一巻「 坐禅儀 」
ラスト一節でした
坐禅は習禅にはあらず ・・
こう述べられてると言う事は
坐禅が習禅になってしまうが常だから
こちら(私)が色々習い事
研究研鑽せにゃならん、は明確なり
でしょうか
一方坐禅の方はと言うと
それ独自の営みがあられる
こちら(私)から観れば
大安楽の法門なり不染汚の修証なり
でしょうが
それは坐禅には関係ないと言うか
こちら(私)に関わらず歩みを進められてる
千年・二千年スパンで見ても
心身が地表に縛り付けられ
狭い水平思考化して来たと推測されます
坐禅がそれ自体でリアルなのは
それが 「3DレーダーSystem」であるから
不調和の原因
色々あるでしょうが
本来3Dに活動したい思考から
垂直系の世界をBackSpace すれば
そりゃ息苦しく窮屈になるは必定哉と
推論されます
BSアンテナに
ドンピシャな調整あるように
思考世界の3D化には身体の3D化
が伴うであろうと推測されます
身体でキレイな十字を切る
道元禅師の威儀を正す( 坐禅の姿 )は
シンプルな方程式の帰結なのかも、です
クリスマスの頃オリオン座が
美しく南天に輝いています
天文学によらず
天空の星々を夜も昼も
茶の間の天井クロスのよう身近に感じられたら
それはそれだけで
大安楽の法門なり不染汚の修証なり
でしょう事かと
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