大 悟 「 懶惰蹉過 」
- 2019/12/11
- 07:48
正法眼蔵「 大 悟 」 13)
近日大宋国、禿子いはく、悟道是れ本期なり
かくのごとくいひて、いたづらに待悟す
しかあれども
仏祖の光明にてらされざるがごとし
ただ真善知識に参取すべきを
懶惰にして蹉過するなり
古仏の出世にも度脱せざりぬべし
今の還仮悟否の道取は、さとりなしといはず
ありといはずきたるといはず、かるやいなやといふ
今時人のさとりはいかにして
さとれるぞと道取せんがごとし
たとへば、さとりをうといはば
ひごろはなかりつるかとおぼゆ
さとりきたれりといはば
ひごろはそのさとり
いづれのところにありけるぞとおぼゆ
さとりになれりといはば
さとりはじめありとおぼゆ
かくのごとくいはず
かくのごとくならずといへども
さとりのありやうをいふときに
さとりをかるやとはいふなり

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正法眼蔵 第十巻「 大 悟 」でした
一光年は、9.5兆 Km です
道元禅師がおられた鎌倉時代を
9.5×1200=約1万2000兆 km先から逆に見れば
そのライブを実際見る事が出来る ・・・ ??
この筆法ですと
「 悟り 」と言う言葉はいつから使われ始めたか
正確に観察出来うるでしょうか
これは頭の軽体操ですが
道元禅師の道場において、鎌倉時代において既に
「 悟り 」 とは何か、五里霧中してたと
この一節から推測されます
さらに推察を進めるなら
この五里霧中はいつから始まったか
正確にライブで特定出来うるはずです
推察されるのは
特定の誰かが、その言葉を発明した時
〇〇〇年〇〇月〇〇日何時何分
正確に特定出来る事でしょう
何せ、現行犯ライブで観察出来るのですから ??
これも頭の軽体操でしたが
言葉は「 偶像崇拝 」 の対象たりえる資質をお持ちだ
でしょうか
家族や友人がヘンテコりんな絵や像を突如飾り
日々拝んでたら、その偶像崇拝は何なんですか?
と心配になります
一方、言葉の 「 偶像崇拝 」 は、目には見えないので
危機感はとりあえず起こりませんが
言葉には尊いの一面と、鬼神な一面、共にお持ちなのかも
でした
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