大 悟 「 半人の不悟者 」
- 2019/11/23
- 07:26
正法眼蔵「 大 悟 」 5)
しかもかくの如くなりといへども
さらに祖宗の懐業を参学すべし
いはく、しばらく臨済に問すべし
不悟者難得のみをしりて
悟者難得をしらずば、未足為足なり
不悟者難得をも参究せるといひがたし
たとひ一人の不悟者を
もとむるには難得なりとも
半人の不悟者ありて
面目擁容、魏々堂々なる
相見しきたるやいまだしや
たとひ大唐国裏に
一人の不悟者をもとむるに
難得なるを究竟とすることなかれ
一人半人のなかに
両三箇の大唐国をもとめ、こころみるべし
難得なりや、難得にあらずや
此の眼目をそなへんとき
参飽の仏祖なりとゆるすべし

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正法眼蔵 第十巻「 大 悟 」でした
「 意識 」と言う言葉
普段の生活でも大問題になる事
あるかも知れない
自分自身は気付かないけど
相手からしたら敵対行為に映る事は
あるかも知れない
指摘されて
「 ぼぉーとしてて、すいませんでした。」
なリアクションならまだセーフの
可能性あるかも知れません
指摘されて
「 はぁ?」なリアクションでは
先が思いやられる哉
普段の生活では「 意識 」は
「 思いやり 」って形で現れる?
臨済院慧照大師の「 大唐国裏 」
道元禅師の「 自己眼晴裏 」
これらは禅僧の指南書ゆえに
姿 ( 坐禅 ) に関する事述べられてる
この身・姿に意をそそぐ事を述べておられる
そう推測されます
禅僧が姿 ( 坐禅 ) に意を注ぐように
普段の生活でも色々親身に意を注がないと
八方ふさがりになって、うまく回らなくなる
これは大いにあり哉と
本日の仮説は、
意識に、受動的・中立的はあらず
意識とは常に
能動的・積極的なもの?
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