行佛威儀 「 了生達死 」
- 2019/05/07
- 05:46
正法眼蔵「 行佛威儀 」 45 )
了生達死の大道
すでに豁達するに
ふるくよりの道取あり
大聖は
生死を心にまかす
生死を身にまかす
生死を道にまかす
生死を生死にまかす

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道元禅師の
教育programその中心は
坐禅を習おうォ!
でしょうか
その応用から
生活全般へと体系は
無限に展開してゆく
とは言え
その核心が
「 坐禅実習 」なとこが
おしゃれなトコ哉
でしょうか
この一節ですが
中核・坐禅学習と
すり合わせてみると?
「 生死 」は、
生き・しにに非ず
神妙に威儀を正そうォ!
その時の
はく息・すう息の事を
述べられてる
そう推測されます
そこに宗教性
信仰の趣は感ぜず
では、信仰とは無縁な
テクニカルな呼吸法?
かと言うと
それとも違う哉?かと
坐禅の如く、威儀を正す
これは↑
何かを信じれば
出来るようになる
その真逆で
そんな事したら
妄迷にとりこまれて
自縛自滅するよう
そのように設計されてる
坐禅の中に
個人的信心は持ち込めない
それが安全装置に
なってるような、です
一方
テクニカルな呼吸法で
坐禅を構築出来る
かと言うと
途中であほらしくなって
坐を解くが正常な反応かと
坐禅は
個人的信心を拒否し
同時に
つめたいテクニカルな
アプローチも
断然拒否される
では、
坐禅の如く威儀を正す
この神器が
受け入れるものとは
何なんだろう?と言う
問いですね
.