行佛威儀 「 通塞明明 」
- 2019/04/14
- 09:59
正法眼蔵「 行佛威儀 」 25 )
しるべし
生死は佛道の行履なり
生死は佛家の調度なり
使也要使なり
明也明得なり
ゆゑに佛は
この通塞に明明なり
この要使に得得なり
この生死の際に
くらからん
たれかなんぢを
なんぢといはん

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この一節を読むに
分けわからん事、こ難しい事
道元禅師はおっしゃってる
そう感じるのは
率直な所でしょうか
一方、表題はと言うと
正法眼蔵「 行佛威儀 」の巻
威儀を正して
シャンとせんとねッ!
て至極Simpleです
では、威儀を正すって
どう言う事だろう?
と言う問いですね
「押し」 と 「引き」
どっちから手をつけるか?
お仕事の進め方の違い哉
でしょうか
スポーツ全般・運動全般
これらを仮に
押しの体育とすると
道元禅師の「威儀」は
引きの体育と言えるかも?
ですね
例えば、畏敬の念
スポーツや運動に
それはゼロとは言わんけど
必須要件ではないよな
一方
「 威儀 」 に於いては
畏敬に似たりな念は
なきゃ成立せんがな
でしょうか
骨格・筋肉・呼吸・血行
これらを駆使して
身体末端の血液を
心臓(中心)へと戻そう!
その基本トーンとしての
畏敬の念に似たりな念
行き着いたもんが
身を引く事で
身体の外周は
新鮮な血液を得る事可となる
指先爪先すべての皮膚
その刷新・新生は
役目を終えた動脈が
自ら身を引くと言う
能動的な 「 Si 」に
かかってる
「 中心へ滅し、 円周より生ず 」
これは能動的行為なんですか?
ですね
.