即心是仏 「 慮知念覚 」
- 2019/02/28
- 13:17
正法眼蔵「 即心是仏 」 2 )
いはゆる
即心の話をききて
痴人おもはくは
衆生の慮知念覚の
未発菩提心なるを
すなはち仏とす
とおもへり
これはかつて
正師に
逢わざるによりてなり

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考慮の「 慮 ryo 」
omoihakaru
朝起きてから
スヤスヤお休みするまで
ひょいって
浮かび上がった思いから
どういう事だろうか?
そんな、推理熟考まで
色んな種類の思考が
絶え間なく続きけり、です
「ふと」「あれ」「じっくり」
「はちゃめちゃ」「ガッテン」
いろいろ
思って来たけど
この心の「思い」は
思いに止まらずに
神妙に運用すれば
身体の骨格にも、なっちゃう
「頭」の中だけで
骨格化する思いを
「知」とするなら
それは「痴」ではないかと
道元禅師は手厳しいです
実際、それは健康的じゃないし
実際、身体を害する
生命力を削いで行くよう
そんな感じもします
では何故
心を、思いを知を
頭ん中の骨格にすると
不健康なのか?て問いです
そぉ、実は
心は、思いは知は
想像想定する以上に
とんでもなく強力なのかも?
子犬ちゃんに非ず
獅子・虎・龍の如し
小さなdogHouseに押し込んでたら
そりゃ不健康になるかも
でしょうか
dogHouse(頭部)に押し込まずに
全身を貫くよう、広場に解き放なんと
そして
ココからが本題で
大海原に渡り鳥の「鳥道」あるように
山中に「けもの道」あるように
心を、思いを知を
全身へ解き放つと言っても
そこに「道」がないとォ!
それが
坐禅しよか!威儀を正そうか!
背筋と両腕で
聖十字の道を拓かんとォ!
心は、思いは知は
そこで初めて存分に羽根を伸ばされる
かけっこなされる
そんな機序になってると
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