即心是仏 「 将錯就錯 」
- 2019/02/27
- 04:31
正法眼蔵「 即心是仏 」 1 )
仏仏祖祖
いまだまぬかれず
保任しきたれるは
即心是仏のみなり
しかあるを
西天には即心是仏なし
震旦にはじめてきけり
学者おほく
あやまるによりて
将錯就錯せず
将錯就錯せざるがゆえに
おほく外道に零落す

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正法眼蔵 第五巻は、 「 即心是仏 」でした
将錯就錯 [ しょうさく-しゅうさく ]
「錯をもって錯に就く」
錯(honmakaina?)で、錯(honmakaina?)にあたる
それっておかしいんとちゃうん?
何が、ちょっとへん
かと言うと
「 即心是仏 」という言葉、その解釈/とらえ方
800年前
鎌倉時代は大昔しなのに
道元禅師は
それまでの解釈は、ちゃうんじゃないですか、と
道元禅師の
「 即心是仏 」は
坐禅しよか!威儀を正そか! って
身体を総動員して
神妙に聖十字描きし時
その心/心身が、「 即心是仏 」 なり
身体のラインを
目では確認出来ない
聖十字の原像に沿って構築す
それって只の姿勢構成
に過ぎんのに
その時、心は「 即心是仏 」
これは仮定ですが
宗教としての教会に関せず
キリストへの信仰が、強靭なる生きる力となった
真のキリスト者の方々
心中身中に
正確に聖十字ラインを
描けた取り込めた
そのラインに沿って生きれた
だからお強よかったきゃも、って
.