身心学道 「 思 量 」
- 2019/02/21
- 03:04
正法眼蔵「 身心学道 」 22 )
思量するといふは
人体はたとひ自他に
礙せらるといふとも
尽十方なりと諦観し
決定するなり
これ未曾聞を聞くなり
方等なるゆえに
界等なるゆえに

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「決定するなり」
けっていと読まずに、「 ketuzyo 」
考えが定まって
信念を持って貫き通す
そんな↑感じィ?
しっかし、そんな事は
現実の生活では無理やし
実際なしたとしても
なんか自閉的狂信的趣ィ!
になってまうがな、でしょうか
道元禅師の「思量」は
ガツンと背で縦糸張って
両脇の前鋸筋をけっぱって
神妙細息で
水彩画のよう活きた聖十字を描こうォ!
です
それは「思量」と言わんと
行為ではないすか? Artやないですか?
そんな風に「思量」と言う言葉
お使いなさってる
ちゅうこって「量」
と言う字を調べてみると
1.重さを「はかる」
2.技量 「腕まえ」
3.度量 「心の広さ」
こっからのイメージは
実際の自分の身体を駆使してる
な、感じかと
image(思)×人体(量)
二つを掛け算しちょる
な、感じでしょうか
身体の半分以上は
水分でっか?あんど
呼吸もしてるんで
気体も出入りなされてる
カタァ!いのは骨格さんで
ふんわり(気体)さんと
柔らか(水分)さんを支えてる
この三つ↑の個性
それを活かして生かすと
image(思)とよぉ融合なさる
念仏みたいに
坐禅しよか!威儀を正そか!
て、ばかなんじゃない?
と感じん事もないですが
人体を駆使しよぉ思ったら
支え(骨格)と
水分的なもん(筋肉)と
ゆるやかなもの(息)←この三者を
その個性通りに発揮せんと
いかんともしがたい
人体はそのよに
設計されちょるんですか?
でしょうか
image(思)×人体(量)
二つを掛け算なさってる
とも言えますが
人体の中にimage(思)が
埋めこまれちょる
聖十字・尽十方のimageが
身体ん中に既に組み込まれてる
さらに言えば人体は
宇宙にあるんきゃも?な
聖十字・尽十方のimageから創られた
だとしたら
幾百年・幾千年経とうが
そりゃ検証可能な
事実となるでしょか?
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