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身心学道   「 思 量 」




正法眼蔵「 身心学道 」  22 )


思量するといふは
人体はたとひ自他に
礙せらるといふとも
尽十方なりと諦観し
決定するなり

これ未曾聞を聞くなり
方等なるゆえに
界等なるゆえに



Kano Tsunenobu 0219 1705




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「決定するなり」

けっていと読まずに、「 ketuzyo 」

考えが定まって
信念を持って貫き通す
そんな↑感じィ?

しっかし、そんな事は
現実の生活では無理やし
実際なしたとしても
なんか自閉的狂信的趣ィ!
になってまうがな、でしょうか


道元禅師の「思量」は
ガツンと背で縦糸張って
両脇の前鋸筋をけっぱって

神妙細息で
水彩画のよう活きた聖十字を描こうォ!
です

それは「思量」と言わんと
行為ではないすか? Artやないですか?
そんな風に「思量」と言う言葉
お使いなさってる


ちゅうこって「量」
と言う字を調べてみると

1.重さを「はかる」
2.技量 「腕まえ」
3.度量 「心の広さ」
 
こっからのイメージは
実際の自分の身体を駆使してる
な、感じかと

image(思)×人体(量)
二つを掛け算しちょる
な、感じでしょうか


身体の半分以上は
水分でっか?あんど
呼吸もしてるんで
気体も出入りなされてる

カタァ!いのは骨格さんで
ふんわり(気体)さんと
柔らか(水分)さんを支えてる


この三つ↑の個性
それを活かして生かすと
image(思)とよぉ融合なさる

念仏みたいに
坐禅しよか!威儀を正そか!
て、ばかなんじゃない?
と感じん事もないですが

人体を駆使しよぉ思ったら
支え(骨格)と
水分的なもん(筋肉)と
ゆるやかなもの(息)←この三者を
その個性通りに発揮せんと
いかんともしがたい


人体はそのよに
設計されちょるんですか?
でしょうか

image(思)×人体(量)
二つを掛け算なさってる
とも言えますが

人体の中にimage(思)が
埋めこまれちょる

聖十字・尽十方のimageが
身体ん中に既に組み込まれてる
さらに言えば人体は
宇宙にあるんきゃも?な
聖十字・尽十方のimageから創られた

だとしたら
幾百年・幾千年経とうが
そりゃ検証可能な
事実となるでしょか? 








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