身心学道 「 不染汚 」
- 2019/01/30
- 07:08
正法眼蔵「 身心学道 」 1 )
仏道は、
不道を擬するに不得なり
不学を擬するに転遠なり
南嶽大慧禅師のいはく
修証はなきにあらず
染汚することえじ
仏道を学せざれば
すなはち
外道闡提等の道に墮在す
このゆえに
前仏後仏かならず
仏道を修行するなり

正法眼蔵 第四巻は
「 身心学道 」でした
身と心、生きてる間は
心は身を住みかとしてる
よって、
身と心で学び、行(道)じようォ!
=
「坐禅しよか!」でした
ギリシャ人は
背中の事を「アポロンの竪琴」
と名付け候でした
身体が楽器になる?
喉で声楽、手にて手拍子
足裏使ってタップなドラム
これ↑くらいしか
思い浮かばんにゃ、ですね
背中が、楽器になるかっ
ちゅうと、そりゃなかでしょう
これが真っ当な判断かと
そぉ、「アポロンの竪琴」は
自ら奏で、一人己のみ聴く事可な
そんな特別楽器なんですね
自分以外は聞く事能わず
コンクールもないし
金賞落選もなか、自ら奏で自ら聴く
世間人様から
評価されんと、なんか寂しいにゃ
是が↑人情
ちゅうもんでしょうか
まっ、
そこんとこ目つぶれば
「アポロンの竪琴」は
チョ便利な楽器でがんしょか
尾てい骨を反り
両脇振りかざせば即調弦
弦がだらっとしてたら
音を奏でんがな、でしょうか
道元禅師の
「坐禅しよか!」は
「背中を調弦しよか!」
に同義哉、ですね
音源は自分でもよぉ分からん
己の気分でしょうか
この↑精神的実体を
「アポロンの竪琴」へ通す事で
新たな音楽へremakeする
道元禅師は仏者であり
思想家・哲学者のジャンルでも
最重要人物でしょうが
そん本丸は「演奏家」だったと
推測されますね
尾てい骨を反り
両脇振りかざせば
その筋肉体感は「蝶」の如し
その羽根で新たな楽曲奏でよか
ですね
.