弁道話 「 参学の願はんに 」
- 2018/12/20
- 11:20

また釈教の
三千界にひろまること
わづかに二千余年の前後なり
刹土のしなじななる
かならずしも
仁智のくににあらず
人またかならずしも
利智聡明のみあらんや
しかあれども
如来の正法もとより
不思議の大功徳力をそなへて
ときいたれば
その刹土にひろまる
人まさに正信修行すれば
利鈍をわかず
としく得道するなり
わが朝は
仁智のくににあらず
人に知解おろかなりとして
仏法を会すべからずと
おもふことなかれ
いはんや人みな
般若の正種ゆたかなり
ただ承当することまれに
受用することいまだしきならし
さきの問答往来し
賓主相交すること
みだりがはし
いくばくか
花なき空に
花をなさしむる
しかあれども、このくに
坐禅辨道におきて
いまだその宗旨伝はれず
知らんと志ざさんもの
かなしむべし。
このゆえに
いささか異域の見聞をあつめ
明師の真訣をしるしとどめて
参学の願はんに聞こえんとす
このほか、叢林の規範
および寺院の格式
いましめすにいとまあらず
又草々にすべからず
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正法眼蔵 「 弁道話 」 62 )
坐禅は、音楽的建築哉
力学的構造物て点では
身体で創る建築物
筋肉系・呼吸系・血流系
これらを求心調和せしめて
呼吸&血行の中に
音楽性を発露せしめる
手腕脇で創る円相構造と
その音楽性の発露は
相互連動なんで
坐禅は、音楽的建築哉と
この建築は見る建築
中に入る建築にあらず
自らが建てる建築なんで
知っても分かっても
「 花なき空に、花をなさしむる 」
なんも出てこんわにゃ、と
自らが建て自らが奏でる
楽しいけど楽ではにゃい
楽ではないけど、楽しいのがええにゃ!
て言う
主体性発揮系の方には、朗報だと
「 知らんと志ざさんもの、かなしむべし 」
そういった方には
いい情報なくて悲しいんで
「 明師の真訣をしるしとどめて
参学の願はんに聞こえんとす 」
私が学んだ事を発信せんと
でしょうか
.