弁道話 「 信不信 」
- 2018/11/24
- 08:42

正法眼蔵 「 弁道話 」 30 )
すでにかたじけなく
諸仏 自受用三昧に安座せり
これ広大の功徳をなすにあらずや
あはれむべし、まなこいまだひらけず
こころなほ酔いにあることを。
おほよそ諸仏の境界は不可思議なり心識のおよぶべきにあらず
いはんや不信劣智のしることをえんや
ただ正信の大機のみ、よくいることをうるなり。
不信の人は、たとひ教ふともうくべきことかたし。
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坐禅は、力ずくでは出来んでしょう
ですね
坐禅を「身体」に置き換えても
同じ事でしょうか
しかも坐禅は身体「全体」を対象としてます
身体全体を掌握する
身体全体を指揮下に置ける
そこで初めて坐禅の形してみて
これはどんなもんなんか?
て、問うことが出来る
と言えるかも知れません
しぃ~んと落ち着いて静かに佇めば
天地時空はそれだけで豊であり
こころを圧倒するもんなんですね
こりゃわるくないすね
て「信」じる事ができますが
落ち着かん、ざわざわしい
ぜんぜんしぃ~んとせん( 不信 )
では双方の見解が平行線なるは
致し方なし、ですね
.