弁道話 「 正 門 」
- 2018/11/24
- 06:35

正法眼蔵 「 弁道話 」 28 )
いまこの坐禅の功徳、高大なることをききをはりぬ。
おろかならん人、うたがふていはん、
「仏法におほくの門あり、なにをもてかひとへに坐禅をすすむるや。」
しめしていはく
「これ仏法の正門なるをもてなり。」
とふていはく、「なんぞひとり正門とする。」
しめしていはく
「大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、
又 三世の如来、ともに坐禅より得道せり。
このゆえに正門なることをあひ伝へたるなり。
しかのみにあらず、
西天東地の諸祖、みな坐禅より得道せるなり。
ゆえにいま正門を人天にしめす。」
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一万年前に生きてた方々
どんな心身と表象の中に
日々を送られてたんか?
今と違ってたはずやろな、ですね
ココ「二千五百年」を見ても
ニュートンさん以降の自然科学
取入れし近代人と
それ以前の自然哲学な思考してた
人々の内面外界はかなり違うやろな、です
そしてこの20年の
通信技術の飛躍的変化
スマホ文化ご到来で個々人が
どんな表象時空におるかは
同じ2018年におっても
銘々違うやろな? ですね
多極化してく
多極化も多極化、70憶(人)くらい
多極化する方向でしょか、です
個々人に分断されて行く
とも言えるし
個々人が自立せんとね、て
時代が向いてる、とも言えます
「自立せんとね!」
自立と言やぁ、
釈尊の「自灯明」でしょうか
二千五百年前のテーマが継続してる
そして、字の通りそのまんま
自立を現すが坐禅の形けん
それが「正門」だと
じゃ、なしてこんお話しが
流行らんかっちゅう要点です
それは坐禅は型であり姿勢なんだけど
力ずくで出来るもんじゃなきゃ
ここでしょうか
.