正法眼蔵 弁道話 16
- 2018/10/20
- 12:14

正法眼蔵「弁道話」
16)
ゆえに、諸仏如来をしては
本地の法楽をまし
覚道の荘厳をあらたにす
および十方法界、三途六道の群類
みなともに一時に身心明浄にして
大解脱地を証し
本来面目現ずるとき
諸法みな正覚を証会し
万物ともに仏身を使用して
すみやかに証会の辺際を一超して
覚樹王に端坐して
一時に無等等の大法輪を転じ
究竟無為の深般若を開演す
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「 深般若を開演す 」
開場は17:30、コンサートのスタートは19:00より
その「開演」でしょうか
何が開演するか、深般若 ( が ) 開演される
そう仰ってる
いや、深般若 ( を ) 開演す、そう仰ってるので
私達は観客にあらず
観る側でなく、する側だっちゃ
でしょうか
道元禅師のReportは
坐禅をする事 = 覚道の荘厳・大解脱地・本来面目・正覚・深般若
色々言葉表現が出て来ても
このシンプル方程式で一貫なされてる
普通、学習学問知恵の獲得は
その深い「理解」とイコールですが
道元禅師の智慧は
「坐禅をする事」とイコールなってる
でも、その坐禅を実際してみると
身体は窮屈だし眠くなるし
そう、坐禅は数分で「自滅」するよな仕掛けになってる
こりゃ流行らんわにゃ、ですね
インド・中国そして日本に坐禅が根ずかんかった
その理由わけでしょうか
敬意畏敬の念なくば
身体の末端、手足指先から
身体の中心方向へのベクトル感
それは出てこんですね
この対中心方向の力線に
吐く息が寄り添うと身体全体で
息する感じになるような、ですね
深般若の「深」は
隅々まで使用する駆使する
その「深く」でしょうか
神仏を向こうに拝し
そして畏敬の念を持つ
これ(宗教心)はありでしょうが
対象を持たず、対象に依存せず
独創独歩の畏敬の心を維持でけるか
道元禅師の智慧の獲得は
そこにかかっちょる、でしょうか
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