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正法眼蔵 弁道話 その3

2018年10月13日05



正法眼蔵 「 弁道話 」


3)
  はなてば手にみてり
  一多のきはならむや。
  かたれば口にみつ
  縦横きはまりなし。
  佛のつねにこのなかに住持たる
  各各の方面に知覚をのこさず
  群生のとこしなへに
  このなかに使用する
  各各の知覚に、方面あらはれず。


- - - - - - - - - - - - - - -


「 放てば手にみてり 」

主体性は発揮するから享受でける
する(放つ)から、得れる(満ちる)!
の道理を繰り返し述べておられます

「 一多のきはならむや。」

すれば、するほど
主体性はその神髄を現す
少ない多い、のきはを超えて泉の如し

「かたればくちにみつ
 縱横きはまりなし。」

主体性の発露に際限がない様でしょうか

では、どぉー発揮すれば
いいのでしょうか?
そう問いたくなります。

主体性は、目には見えない
精神的なものと言えます
では、その作用の
身体的対応物は特定出来るのか
暑さ寒さは目には見えませんが
水銀柱がその対応物になってる
主体性では何が対応物か?
これが姿勢、坐禅の形として
対応して来ると

何故に意味もない只のポーズが
主体性の対応物になるのか?

それはその姿が特異な所なく
Simple&静かゆえに
身体の全末端、外周、各爪先まで
自分の主導権を行使するに相応しい
やさしい姿だから、でしょうか


坐禅は、何かしてる
わけでもないし
その後に何も生まない
坐禅している時、身体外周全体に
主導権を行使して姿を形成している
只それだけで、以上でも以下でもない
これが特質になってる


 「佛のつねにこのなかに住持たる
  各各の方面に知覚をのこさず
  群生のとこしなへに
  このなかに使用する
  各各の知覚に、方面あらはれず」


全体(全身・姿勢)を掌握する営みゆえ
特定の身体部分・反応には頓着しなくなる
その事を述べておられる

なんだかなぁ、な感じの赤ちゃん
お母さんにしっかり抱かれたら
すっかりご機嫌になった
安心な表情になった

大人になってから
お母さんに抱っこしてもらうのも
ちょっと?だし
パートナーがおったとしても
相方さんもお忙しいから
いつも抱っこして!とも言えんし
自分の身体は自分で抱っこしよか
でしょうか

では何故、全身を抱きしめると
安心するんか?

全体を「一握り」にすれば
個々の知覚は中和され角がとれる
でしょうか


 「各各の知覚に、方面あらはれず」

全体(全身)を一握りする位の
己の主体性が発動してるんですから
外からの知覚に
押しこまれる事がないのは
当然でしょう、ですね。






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